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日蓮大聖人『御書』解説

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2025年 07月 14日

国家諌暁のために 4

 三、日目の国諫及び大石歴祖等の分。


 宗祖開山の代官として公家への奏上武家への訴訟合して四十二度に及びと云へり、現存申状は開山上人滅後に皇政復古の佳期を幸に七十四の老躯(ろうく)を厭(いと)はず日尊・日郷の両老僧を伴侶として遠征の歩を運ばれ特に元弘三の王政の年の年号(1333)を用ひられたり、

 不幸にして垂井(たるい)の雪と消えられたるも、却つて後世を鞭撻(べんたつ)せられたるの感あり、此の正本・珍らしくも妙本寺に存す、祖滅五十二年なり、目師巳後道師・行師・有師(うし)より降つて近代の分を列記す。小説参照



 日蓮聖人の弟子日目・誠惶誠恐謹んで言す。

 殊に天恩を蒙り、且は一代説教の前後に任せ、且は三時弘経の次第に准じて、正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇(あが)められんと請ふの状。

 副(そ)へ進ず。


 一巻、立正安国論、祖師日蓮聖人、文応元年の勘文。

 一通、先師日興上人申状

 一通、三時弘経の次第。


 右謹んで案内を撿(かんが)へたるに一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意の任すべし、三時の弘経は則ち如来の告勅なり・進退全く人力に非ず。

 抑(そもそ)も一万余宇の寺塔を建立し恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社檀を崇め、如在の礼奠怠懈(れいてん・たいげ)せしむることなし、然りと雖も顕教・密教の護持も叶はずして国土の災難・日に随つて増長し、大法秘法の祈祷も験(しるし)なく・自他の叛逆(ほんぎゃく)歳を逐うて強盛(ごうじょう)なり、神慮測られず仏意思ひ難し、

 倩(つらつ)ら微管を傾け・聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、仏滅後二千余年の間・正像末の三時流通(るつう)の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したまふところの秘法・三あり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり、之れを信敬(しんぎょう)せらるれば天下の安全を致し・国中の逆徒を鎮めん、

 此の条・如来の金言分明なり・大師の解釈炳焉(へいえん)たり、中ん就く我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む、然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せば仏も慶び・神も慶ぶ、法華本門の正法を立てらるれば人も栄え国も栄えん、

 望み請ふ、殊に天恩を蒙り・諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ・一乗妙典を崇敬せらるれば金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱・閻浮(えんぶ)に絶えず・玉体恙無(つつがの)うして宝祚(ほうそ)の境・天地と彊(さかい)無けん、日目・先師の地望を遂げんがために後日の天奏に達せしむ、誠惶誠恐・謹んで言す。


 元弘三年(1333)十一月 日目。



(要集疏釈部の一、五人所破・日眼見聞 二二頁)。

○総じて天下へ奏したまひける事は御門流より先には諸門流に無き事なり、日目上人・四十二度の天奏に依つて禁裡より御納収の御下し文・右に備ふ、広宣流布は必ず当門徒に在るべきなり○。


(要集宗義部の二、五段荒量一五九頁)。

○日目上人は四十二度の御天奏、最後の時、近江の篠原(しのはら)にて御遷化(ごせんげ)なり○。


(要集疏釈部の一、日我申状見聞一五一頁)。

○目上は一代の間・四十二度の御天奏なり、或は高祖開山の御代官或は自分の奏状なり、四十二度目、正慶二年(1333)癸酉(みずのととり)御上洛の時、美濃の国・樽井に於いて地盤行躰勤労の上・長途の窮屈老躰の衰病、殊に雪中寒風の時分たる間・こごゑ(凍)給ひ・既に御円寂・霜月十五日なり○。



 四世日道の諫状、祖滅五十五年、道師は諫状を草案しかけたるも奉呈するの機無し、日寛上人補足して現申状を作りて其志を満せりとの説あり、

 或は然らん、延元元年(1336)二月は蓮蔵坊事件の当時なり・何ぞ上洛の暇あらん、鎌倉すらも覚束(おぼつか)なき時なり、然りと云へども寛師巳前の古目録に猶道師申状があり、他日の撿定(けんてい)に俟つ。



 日蓮聖人の弟子日興の遺弟日道誠惶誠恐謹んで言す。

 殊に天恩を蒙むり・爾前迹門の謗法を対治し、法華本門の正法を建てらるれば天下泰平、国土安穏ならんと請ふの状。

 副へ進ず。


 一巻 立正安国論 先師日蓮聖人文応元年の勘文。

 一通 先師日興上人申状の案。

 一通 日目上人申状の案。

 一  三時弘経の次第。


 右、遮那(しゃな)覚王の衆生を済度したまふや権教を捨てゝ実教を説き、日蓮聖人の一乗を弘通したまふや謗法を破して正法を立つ、謹んで故実を撿(かんが)へたるに釈迦善逝(ぜんせい)の本懐を演説したまふや・則ち四十余年の善巧(ぜんぎょう)を設け、日蓮聖人の末世を利益したまふや則ち後五百歳の明文に依るなり、

 凡そ一代の施化は機情に赴いて権実を判じ、三時の弘経は仏意に随つて本迹を分つ、誠に是れ浅きより深きに至り・権を捨て実に入るものか。

 是を以て陳朝の聖主は累葉崇敬の邪法を捨てゝ法華真実の正法に帰し、延暦(えんりゃく)の天子は六宗七寺の慢幢(まんどう)を改めて一乗四明の寺塔を立つ、天台智者は三説超過の大法を弘めて普く四海の夷賊を退け、伝教大師は諸経中王の妙文を用ゐて鎮(とこしなえ)に一天の安全を祈る、是れ則ち仏法を以つて王法を守るの根源、王法を以て仏法を弘むるの濫觴(らんしょう)なり、経に曰く正法治国・邪法乱国と云云。 

 抑も未萠を知るは六聖の聖人なり、蓋(けだ)し法華を了(さと)るは諸仏の御使なり、然るに先師日蓮聖人は生智の妙悟深く、法華の淵底を究め、天真独朗玄(かす)かに未萠(みぼう)の災孽(さいげつ)を鑒(かんが)みたまふ、経文の如くんば上行菩薩の後身・遣使還告(けんしげんごう)の薩埵(さった)なり、若し然らば所弘の法門・寧(むし)ろ塔中伝附(たっちゅう・でんぷ)の秘要・末法適時の大法に非ずや。

 然れば則ち早く権迹浅近(ごんしゃく・せんごん)の謗法・棄捐(きえん)し本地甚深の妙法を信敬(しんぎょう)せらるれば、自他の恐敵自ら摧滅(さいめつ)し上下の黎民(れいみん)快楽(けらく)に遊ばんのみ、仍って世のため誠惶誠恐・謹んで言す。


 延元元年(1336)二月 日道。



 五世日行の諫状、祖滅六十一年、写本総本山に在り。


 日蓮聖人の弟子日興の遺弟等謹んで言す。

 早く如来出世の化儀に任せ、聖代明時の佳例に依つて爾前迹門の謗法を棄捐し、法華本門の正法を信仰せば、四海静謐(せいひつ)を致し・衆国安寧ならしめんと欲する子細の事。

 則へ進ず。


 一巻、立正安国論、日蓮聖人、文応元年の勘文。

 一通、祖師日興上人、申状の案。

 一通、日目上人、申状の案。

 一通、日道上人、申状の案。

 一つ、三時弘経の次第。


 右八万四千の聖教は五時の説教を出でず、五千七千の経巻は八軸の妙文に勝れず、此れ則ち釈尊一代五十年説法の間・前後を立てゝ権実を弁ず、

 所以に先四十二年の説は先判の権教なり、後八年の法華は後判の実教なり、而るに諸宗の輩(やから)権に付いて実を捨て、前に依つて後を忘れ、小に執して大を破す、未だ仏法の淵底を得ざるものなり、

 何に由つてか現当二世の利益を成ぜんや、経に曰く正法治国・邪法乱国と、若し世上静謐ならずんば御帰依の仏法豈邪法に非ずや、是法住法位・世間相常住と云へり、若し又四夷の乱あらんに於いては寧ろ正法崇敬(すうぎょう)の国と謂(いい)つべけんや、悪人を愛敬(あいぎょう)し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨・皆時を以て行(めぐ)らず、謗法の悪人を愛敬せられ正法の行者を治罰せらるゝの条・何ぞ之れを疑はんや、

 凡そ悪を捨て善を持ち、権を破して実を立つるの旨は如来化儀の次第なり・大士弘経の先蹤(せんしょう)なり、又則ち聖代明時の佳例なり、最も之れを糺明せらるべきか。

 此に於て正像末の三時の間・四依の大士弘通の次第あり、所謂(いわゆる)正法千年の古(いにしえ)月氏には先づ迦葉・阿難等の大羅漢・小乗を弘むと雖も、後・竜樹・天親等の大論師・小乗を破して権大乗を弘通す、像法千年の間・漢土には則ち始め後漢より以来南三北七の十師の諸宗を崇敬すと難も、陳隋両帝の御宇(ぎょう)南岳・天台出世して七十代・五百年御帰依の仏法を破失し、法華迹門を弘め乱国を治し衆生を度す、

 倭国には亦欽明天皇より以来二百年・二十代の間・南都七大寺の諸宗を崇めらるゝと雖も、五十代桓武天皇の御宇・伝教大師諸宗の謗法を破失して叡山に天台法華宗を崇敬せられ、夷敵の難を退け乱国を治す、

 是に又末法の今・上行菩薩出世して法華会上の砌(みぎり)虚空会(こくうえ)の時・教主釈尊より親(まのあた)り多宝塔中の付属を承け、法華本門の肝要・妙法蓮華経の五字並びに本門の大漫茶羅と戒壇とを今の時弘むべき時尅なり、所謂日蓮聖人是れなり、

 而るに諸宗の族(やから)只信ぜざるのみに非ず、剰(あまつさ)へ誹謗悪口(あっく)を成すの間・和漢の証跡を引いて勘文に録し、明時の聖断を仰ぎ奏状を捧ぐと雖も今に御信用なきの条・堪へ難き次第なり。

 所謂諸宗の謗法を停止(ちょうじ)せられ・当機益物を法華本門の正法を崇敬せらるれば、四海の夷敵も頭を傾け掌を合せ、一朝の庶民も法則に順従せん、此れ乃ち身のために之れを言さず・国のため・君のため・法のため恐々言上件(くだん)の如し。


 暦応五年(1342)三月 日行。



(要集疏釈部の二、日有御物語抄佳跡、三七一頁)。

○日行上人の暦応年中の御天奏の時、白砂にひざまづき御申状を読み給ひしかば、紫宸殿(ししんでん)の御簾(みす)の内に帝王・御迂(う)み有つて揣々(しし)と日行を御覧じけるが、少し打ちそばむき給ひける程に、日行上人是れ如何なる御気色なる覧と在りければ、奏者・御袈裟を抜ぎ給へと有りける程に、その時白砂の上に扇を開き其の上に袈裟を置いて御申状を遊ばしければ・又打向ひ給ひて聞せる給ひけるとなり○。



 九世 日有(にちう)上人の諫状、祖滅百五十一年、写本総本山に在り。


 日蓮聖人の弟子日興の遺弟・日有誠惶誠恐謹んで言す。

 殊に天恩を蒙り・且は諸仏同意の鳳詔を仰ぎ・且は三国持法の亀鏡に任せ、正像所弘の爾前迹門の謗法を棄捐せられ、末法適時の法華本門の正法を信敬せらるれば天下泰平・国土安穏ならしめんと請ふの状。

 副へ進ず。


 一巻、立正安国論、日蓮聖人、文応元年の勘文。

 一通、 日興上人 申状の案

 一通、日目上人 申状の案。

 一通、日道上人 申状の案。

 一通、日行上人 申状の案。

 一つ、三時弘経の次第。


 右謹んで真俗の要術を検へたるに治国利民の政は源・内典より起り、帝尊の果報は亦供仏の宿因に酬ゆ、而るに諸宗の聖旨を推度するに妙法経王を侵され一国を没し衆生を失ふ、庶教典民に依憑(えびょう)して万渡を保ち・如来勅使の仏子を蔑(あなど)る、緇素(しそ)之れを見て争か悲情を懐かざらんや。

 凡そ釈尊一代五十年の説法の化儀・興廃の前後歴然たり、所謂小法を転じて外道を破し・大乗を設けて小乗を捨て実教を立てゝ権教を廃す、又迹を払つて本を顕す、此の条・誰か之を論ずべけんや、況や又三時の弘経は四依の賢聖悉く仏勅を守つて敢(あえ)て縦容(しょうよう)たるに非ず、

 爰を以て初め正法千年の間・月氏には先づ迦葉・阿難等の聖衆小乗を弘め、後に竜樹・天親の大士・小乗を破して権大乗を弘む、次に像法千年の中末(なかごろ)震旦には則ち薬王菩薩の応作(おうさ)天台大師・南北の邪義を破して法華迹門を弘宣(ぐせん)す、将又後身を日本に伝教と示して六宗の権門を拉(くだ)き・一実の妙理を帰せしむ。

 然るに今・末法に入つては稍三百余歳に及べり、正に必ず本朝に於ては上行菩薩の再誕日蓮聖人・法華本門を弘通して宜しく爾前迹門を廃すべき爾の時に当り巳んぬ、是れ併(しか)しながら時尅と云ひ機法と云ひ・進退の経論明白にして通局の解釈炳焉たり、寧ろ水影に耽つて天月を褊(へん)し・日に向つて星を求むべけんや、

 然るに諸宗の輩(やから)所依の経々・時既に過ぎたる上、権を以て実に混じ・勝を下して劣を尊む、雑乱と毀謗と過咎(かぐ)最も甚し、既に彼れを御帰依の間・仏意快からず、聖者化を蔵し善神・国を捨て悪鬼乱入す、此の故に自界の親族忽ちに叛逆を起し、他国の怨敵弥(いよい)よ応に界に競ふべし、唯自他の災難のみに非ず、剰へ阿鼻(あび)の累苦を招ぐをや。

 望み請ふ、殊に天恩を蒙り爾前迹門の諸宗の謗法を対治し法華本門の本尊と戒壇と並びに題目の五字とを信仰せらるれば、広宣流布の金言・宛も閻浮に満ち、闘諍堅固の夷賊も聊(いささ)か国を侵さじ、仍って一天安全にして玉体倍す、栄耀を増し・四海静謐にして土民快楽(けらく)に遊ばん、日有(にちう)良(や)や先師の要法を継いで以て世のため・法のため・粗天聴に奏せしむ、誠惶誠恐・謹んで言(もう)す。


 永亨四年(1432)三月 日有。



(要集、同上 同上三七三頁)

○武家にも目安を奉るに直奏とて外に御行の時の禁より右の方にひざまづき○(武家直奏の作法を記してあるが長文の故に省略す)、六人の御童子の内に当時御気色よき御童子に兼ねて一喉(いっこう)の分を入るゝなり巳上。





by johsei1129 | 2025-07-14 19:43 | 日蓮正宗 宗門史 | Trackback | Comments(0)


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