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日蓮大聖人『御書』解説

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2025年 07月 14日

国家諌暁のために 3

 二、日興の国諫。


 日興上人は長寿なりしが故に諫状の回数も頻々たりしが、便宜上其れも多くは武家関東北条家であり又晩年には公武共に門下に代官せしめられた、其の申状も時に依り同文を使用せられたものと見え、現存の写本にも同一状に二三の年月が書かれてある、

 但し現存のものは三通であつて、正応二年(1289)とあるのは「重ねて申す」とあり、元徳二年(1330)とあるのには「重ねて言上」とあるから、此れより以前の初申の申状があるやうに見ゆる、但し此の二の申状の内容は何れも武家に呈出せられたもので、朝廷へ上奏の文句は見えぬ、但し当時の例語は上奏の二字に必ず朝廷への意を独占せしめてなく敬語混濫の傾向がある。

 次に嘉暦二年(1327)の申状には明らかに庭中言上と断はられ、入文にも朝廷への用語が盛られてある、

 此至難な庭中上奏は誰がなさつたであろう。無論御自身では無いとすれば現存の文献では興師より代師への(既掲)嘉暦二年九月十八日の御状が年月では適確のやうであるけれども、第一に此状の出所が不明であつて、西山でも格別に大事にしてないやうであり、内容に疑問がある、

 次には日順血脈の(既掲)二年八月身命を捨てゝ禁裏の最初の奏聞を致すと云ふのが吻合(ふんごう)するやうである、仮令(たとい)庭中の文字は無くても、去り乍(なが)ら此は順師の記事に絶対の信憑を置いての上である、但し時日文献は存在せずとも日仙上人も在り又師より再々賞与せられた日目上人に持つて行つた方が穏当かも知れぬ。


 興師申状の一、祖滅八年、写本要山等に在り、武家への諫状なり。


 日蓮聖人の弟子日興を重ねて申す。

 早く真言・念仏・禅・律等の邪法興行の僧徒を破却して妙法蓮華経の首題を崇敬せられ

天下泰平・国土安穏・異国降伏の祈に資せんことを請ふの状。


  副へ進ず、一巻 立正安国論 文応元年之を勘ふ。

  一巻 文永八年の申状


 件(くだん)の条先度具(つぶさ)に言上し畢(おわ)んぬ、而るに今に早聴に達せざるの間・重ねて申す所なり、

 先師聖人、雪行を床頭に積んで教源の乾かんと欲するを潤し、蛍幌を窓前に懸け法燈の滅せんと欲するを挑(かか)げ、稽古浅しと雖も偏(ひとえ)に淹(とどま)りを抑(おさ)む、

 爰に諸経の説相を勘へ見るに妙法蓮華経の首題は一乗の肝要諸仏の本懐なり、之を以て正法となす、真言・念仏・禅・律等は爾前の権説・専ら聖旨に背くなり、之を以て邪法となすなり、

 世・澆季(ぎょうき=末世)に及びて正法を捨離し、人悪心に帰して邪法を賞翫(しょうがん)す、茲(ここ)に因て守護の善神は国を避け・怨敵の悪鬼は便りを得、異賊襲ひ来て国を攻め、疫病充満して災を成す、国土の衰弊・人民の滅亡斯の時に当れり、鳴呼(ああ)悲しいかな国は邪法の興行にて依て忽(たちまち)に亡びんと欲し、人は悪心の熾盛(しじょう)に依って将に難に逢はんとす。

 聖人独り歎いて夜を明し・思うて日を渉る、此の瑞相を鑒(かんが)みて国土安全の為に去(いぬ)る文応年中・立正安国論を作り、上覧に備ふと雖も御裁断を相待たずして聖人入滅し巳る。今国体を見るに併せて彼の勘文に符合す、争(いかで)か之を賞せられざらんや、

 勁松(けいしょう=強い松)は歳寒に彰はれ、忠臣は国危に見(あら)はる、仍つて遺弟且つは先師の鬱憤(うっぷん)を散ぜんが為め、且つは仏法の興隆を遂げんが為め、重ねて上裁を経る所なり、

 是れ法の為め・国の為め之を申ぶと雖も身の為め・利の為め之を申べず、凡そ先代以来法華を弘むるの類(たぐい)未だ題目を流布せず、法滅の時を期する故なり、而るに日蓮聖人・仏の使となり生を末世に受けて正法を弘め、志を求法に寄せて円意を悟る、尤も正法を崇敬せば離散の仏神帰り来つて国土を守護して夭孽(ようげつ=災い)を禦(ふせ)ぐべし。

 抑(そもそ)も伝教大師弘むる所の法華は猶以て迹門なり、先師聖人弘むる所の法華は併(しかしなが)ら以て本門なり、浅深炳焉(せんじん・へいえん)たり、之を採択する処・用捨宜く顕然たるべし、所詮・邪法興行の僧徒に召し合せられて問答を遂げ、法の邪正を糾明せられて邪法を破却し、正法を崇敬せられば彼の異賊滅亡し此の国土興復せんのみ、仍つて重て言上すること件の如し。

 

 正応二年(1289)正月月日。



 興師申状の二、祖滅十八年巳後、写本総本山等に在り、本山にては此の状の分を専ら捧読するの例有り。


 日蓮聖人の弟子日興重ねて言上。

 早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てられば天下泰平国土安全たらんと欲する事。


 副へ進ず、先師申状等。

 一巻、立正安国論 文応元年の勘文。

 一通、 文永五年の申状

 一通、同八年の申状。

 一つ、所造の書籍等。


 右度々具(つぶさ)に言上し畢んぬ、抑(そもそ)も謗法を対治し正法を弘通するは治国の秘術・聖代の佳例なり、所謂漢土には則ち陳隋の皇帝・天台大師十師の邪義を破し乱国を治す、倭国には亦桓武天皇・伝教大師六宗の謗法を止めて異賊を退く、

 凡そ内に付け外に付け悪を捨て善を持つは如来の金言・明王の善政なり、爰に近代天地の災難国土の衰乱・歳を逐うて強盛なり、然れば則ち当世御帰依の仏法は世のため・人の為の無益なること誰か之れを論ずべけんや、凡そ伝教大師・像法所弘の法華は迹門なり、日蓮聖人・末法弘通の法華は本門なり、是れ即ち如来付属の次第なり、大師の解釈明証なり、仏法のため王法のため早く尋ね聞こし食(め)され急ぎ御沙汰あるべきものか、

 所詮末法に入つては法華本門を建てられざるの間は国土の災難日に随つて増長し、自他の叛逆・歳を逐うて蜂起せん、是れ等の子細具(つぶさ)に先師所造の安国論並びに書籍等に勘へ申すところ皆以て符合せり、然れば則ち早く爾前迹門の謗法を対治し、法華本門の正法を立てらるれば天下泰平・国土安全たるべし、仍って世のため法のため・重ねて言上件(くだん)の如し。

 元徳二年(1330)三月 日興。



(又正安元年[1299]九月日又正和二年[1313]七月日又嘉暦二年[1327]十一月十七日とあり)

 興師申状の三、祖滅四十六年、写本要山等に在り、五人所破抄に引用せるものにして公家上奏の分なり。

 

 日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住・日興、誠惶誠恐・庭中に言上す。

 殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ、且つは第五百歳の金言に依り、永く爾前迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。


 副(そ)へ進ず、一巻、立正安国論 文応元年の勘文並びに三時弘経の図等。


 右謹んで案内を検(かんが)へたるに仏法は王法の崇重に依りて威を増し、王法は仏法の擁護に依りて基(もとい)を闢(ひら)く、

 是を以て大覚世尊・未来の時機を鑒(かんが)みて世を三時に分ち、法を四依に付して以来、正法千年の内・迦葉阿難等の聖者・先に小を弘め大を畧(りゃく)し、竜樹天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間・異域には則ち陳惰両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教・六宗の僻論(びゃくろん)を改む。

 今末法に入つては上行出世の境・本門流布の時なり、正像巳に過ぎぬ、何ぞ爾前迹門を以つて強ちに御帰依有るべけんや、料(はか)り知んぬ讒侫叡聞(ざんねい・えいぶん)を隔て邪義正法を妨ぐ如来得道の昔・尚魔障有り、何に況んや末代をや、

 然るに聖主御宇(ぎょう)の今や時機巳に又至れり、弘通の期幾日ぞや、中ん就(ず)く天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末代の代を迎へて恢弘(かいこう)す、彼れは薬王の後身・此れは上行の最誕なり、経文に載する所・解釈に炳焉(へいえん)なる者なり。

 凡そ一代教迹の濫觴(らんしょう)は法華の中道を説かんが為なり、三国伝持の流布・盍(なん)ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫(がりゃく)を貴んで珠玉を棄て、燭影を捧げて日光を哢(ろう)せば、只風俗の迷妄に趁(はし)つて世尊の化導を謗ずるに似たるか、華中に優雲(うどん)有り、木中に栴檀有り、凡慮覃(およ)び難し・併ら冥鑑に任す、偏に舜の道を嗜(たしな)み揚墨の門に立たず、今・適(たまた)ま聖代に逢ふ、早く下情を達し、将に上聴を驚かさんとす、

 天裁を望み、請ふ且(かつ)は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速に爾前迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐(かいだい・せいひつ)にして天下泰平ならん、日興誠惶誠恐・謹んで言(もう)す。

 

 喜暦二年(1327)八月日


(要集宗史部の一、御伝土代一九頁)

○日興上人は大聖御遷化の後・身延山にて弘法をいたし・くげ(公卿)関東のそうもん(奏聞)をなし○。


(要集疏釈部の一、申状見聞一九一頁)

○御一代の御天奏五六度に及び申状何れにも之有り・後を見るべし、文底は五人所破抄の如し、此の四の申状は喜暦二年十月十七日の奏聞なり四度目の奏状なり、○、正和二年七月日と書きたる本も之有り、元徳二年の申状は目上天奏の時に副へ進ぜられると雖も樽井に於いて御円寂の間・奏聞無きか○、此の外・数通の申状之有り・見合すべきなり、弘安八年の状、正応二年の状同三年の状、喜暦二年の状等なり○。


 編者(日享)云く、我師の引用せる四の申状と云ふは本山に専ら用ふる元徳二年の申状なり、目師の副進と我師が云ふ元徳二年状と云ふは何れを指すや不明なり、又此の申状見聞に引用の興師抄(本山の元徳二年状)を嘉暦二年十一月十七日として自身御天奏ありし様の文意なれども、文中何等(なんら)禁廷に上奏すべきの文字無し、或は日我の誤釈か、但し五人所破抄引用の嘉暦二年の申状と混同すべからざる事を断りをく。





by johsei1129 | 2025-07-14 11:01 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)


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