人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2025年 07月 13日

国家諌暁のために 2

一、園城寺申状及び御下し文。


  大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空篋(くうきょう)を西山に存するのみ、鳴呼(ああ)悼(いた)ましいかな。


 (既に第二に出す、妙本寺に在る興師元亨四年十二月廿九日の本尊脇書)

 最前上奏の仁、卿阿闍梨日目、(道師加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す。


(同上、総本山に在る興師正慶元年十二月三日の本尊脇書)

 最初上奏の仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す、一が中の一弟子なり、(道師加筆)日道之を相伝す。


(同上)

 総本山に在る日興跡条々の事。

○日興が身に当て給はる所の弘安二年の大御本尊並に弘安五年二月廿九日の御下し文○。

○弘安八年より元徳四年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり○。


(同上、総本山に在る日興上人御遺跡の事)。

日蓮聖人の御影(みえい)並びに御下し文・園城寺申状、上野六人老僧の方まで守護し奉るべし○。


(同上、西山に写本有る日助の置文)。

日蓮聖人の御影並に御下し文、又園城寺申状の事○。

  

  編者(日享)云く、具文は第二僧俗譲状の下に在り、此の三重宝・大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱・時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず、

 又従つて開山滅後廿四年を経過せる此の置文の時は日助の手に御影のみ収納して申状御下し文は其儘(そのまま)南条家に在りて引渡を肯(がえん)ぜざれば、国主に訴へて其権力を借りても僧衆へ回収すべしとの此の置文の意なるが、其儘南条時長一家の没落と共に紛失したりしや、又は一度取りかへしての後・西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、

 但し此より百二十余年後の妙本寺日要の談には東台谷戸(東光寺か)に在りと云へば、若し此の談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ。


(要集宗義部の二、有師談連陽房聞書より)。

○日蓮聖人も武家に奏したまふ、日興上人も只武家に訴へたまふ、爰に日目上人元(はじ)めて国王に奏しまふ○、日興の遺跡は新田の宮内卿阿闍梨日目、最前上奏の人たれば大石寺の別当と定む。


 本尊問答抄日要談日杲聞書の奥、祖滅二百年頃、写本妙本寺に在り。

○大石寺の三箇の大事とは、一、御影像、二、薗城寺申状、一、御下し文なり、今は東台がいと(谷戸)(今の東光寺か)に之有り。


  日辰より日院に送る状より、祖滅二百七十七年、写本要法寺に在り、大石寺と通用を計りし状の中なり、具文後に出すべし。


 ○日目上人は○高開の代官として鳳闕(ほうけつ=宮城の事)に奏聞し鎌倉の訴状既に四十二度に及ぶ、

 帝王即ち奏状並びに三時弘経の図を得て園城寺に碩学(せきがく)に讎校(しゅうこう=調べただす)せしむ、碩学上書して云く三時弘経の勘文殆んど以つて符合すと取意、帝王感悦して御下し文を賜ふ、

 其の文に云く朕若し法華を持たば富士の麓(ふもと)を尋ぬべしと取意、右二通は是れ開山の眉目当門の名称なり、若し日目の勤労に非んば争でか三井の許諾に預からんや、又頃年を経て上聞に達せんと欲し進んで濃州に趣く、未だ宿望を遂げずして入滅す○。





by johsei1129 | 2025-07-13 15:50 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)


<< 国家諌暁のために 3      国家諌暁のために 1 >>