富士宗学要集 第8巻「第六 国諌」
第六、国諌。 五十九世 堀 日享(にちこう)
大聖人の弘教は慈念の迸(ほとば)しるところ急速なる国家救済にあるが故に便宜に従つて寸時も逆化の手を緩めず、清澄(きよすみ)に在る時は其の周囲に・鎌倉に在る時は其の大衆に毒鼓(どっく)を撃ち、遂に時の執権北条家に他教徒と対論を要請せられたるより、此れが国法に触れたりとして流刑・死刑に及んだのであるが、三諫の後・官憲稍(やや)其の為国護法の誠意を認めたるも所志貫徹は覚束(おぼつか)無きを以つて遂に政都を去り山籠(やまごもり)以来更に帝王に諫状を作り門弟子をして献覧に供へられた、
巳来大法広布の暁までは代々の後継法主・此の鴻旨(こうし)を奉体し身命財を拠(なげう)つて、時宜の国諫を為すを宗規とす、
然りといへども乱世に在りては其主権の所すら判然せず悪吏・間を距(へだ)て容易に願書の受理すら行はれず、此を以て公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動し必死の覚悟を以つて猛進せざるべからず、
他門にして日像の三黜三陟(さんちゅつさんちょく)の如く日什奏聞記及び穆記(ぼくき)に示す如く日親の文献に在るが如く国難にして効験甚だ薄く、自他にして日郷日要の如く準備に大苦労を為して所得少く、況や戦国時代は上下自他共に疲弊の極に達し・国諫の大望よりも大金を費して不入の訴訟を成功せざるべからず、
徳川偃武(えんぶ)の後は巧妙綿密なる政策に拘束せられて僧分は手も足も使へぬ事となつて知らず知らず国諫を閑却するに至り、遂に堅樹日好の如き爆弾漢を生ずるに至ると雖も如何ともする能はず、徒(いたずら)に官の為す所に放任す、
時なるかな幕末・内憂外患・天変地夭興盛にして諫(いさ)め易きの好時機を迎へて始めて数箇の諫聖出でゝ宗意を有司に暢達(ちょうたつ)するを得たれども、遂に素願は望み遠し、
殊に明治の聖代民権大に伸張して諸願達成せられざる無きも、此の一願に於いて成就の望少き事・戦国幕政時代に加上す、
此を以つて上御一人の聖意を動かす事の容易ならぬに加へて下億兆の輿論(よろん)を改善せざるべからざるの苦難を凌(しの)がざるべからず、幸か不幸か諫状の急策・暫(しばら)く絶望に帰す。
つづく