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日蓮大聖人『御書』解説

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2025年 06月 11日

弁疏の書(その二)

 四、「近年世襲がはびこる宗門組織」について

 ①について
 一般論として会社組織の場合、大企業の上場企業であれば不特定多数の株主が存在し、かつ常にメデイアの批判に晒されて、代表者が次の代表者に能力を鑑みることなく自身の身内に譲ることは非常に困難であり、あくまでなるべき人の能力を鑑みて次の代表者を決定することになります。しかし、小企業、小組織の狭い閉鎖的な組織の場合、身内で代表者や幹部役員を譲り合い、世襲の弊害が発生しやすいものです。

 日蓮正宗の宗門の組織は、宗教の宗派という特殊性、一般的には特殊な世界であり、決して不特定多数に開かれているとはいえません。しかしこれは「唯受一人の血脈相承」が日蓮正宗の根本であり、一般的な企業組織・スポーツ芸能関連組織と比較することは間違いであることは当然ですが、狭い組織であることもまた事実で、それ故世襲に対し常に鑑みる必要があります。「世襲がはびこる」という私の言葉は確かに行き過ぎた言葉でありますが、その兆しを私は感じており敢えて建白させていただきました。

②について
 日開上人が身延山久遠寺住職岡田日歸と共に、時の文部大臣、田中隆三氏に宗祖日蓮大聖人を「立正大師勅額御下賜」として請願したことはまぎれもない事実です。現在の宗門がどのような説明をしようとしてもこの事実を隠すことはできません。あらためて左記をご確認願います。しかしこの事があったとしても、実態として、日蓮正宗の僧俗が日蓮大聖人を立正大師と呼ぶことは過去も現在も全くなかったと理解しております。

 念書
 宗祖立正大師六百五十遠忌ニ際シ御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗(派)ニ於テモ異議無之候條速ニ御下賜有之
  昭和六年 月 日
      宗(派)管長     印
文部大臣  田中 隆三 殿 

五、「権力者にすり寄る宗門」について

 日蓮大聖人は供養について「新池御書」で次のように門下の信徒を諭されておられます。

 「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億倍優れたりと仏は説かせ給いて候」

 宗門の檀信徒である法華講員は「此の経の行者」つまり現在においては日蓮大聖人の法門を厳護、広宣流布の先頭に立つ御僧侶の活動を支えるために御供養させていただいております。

 「北海道胆振東部地震」への見舞金一千万は当然被害にあわれた道民に使われます。
 現在日本国民の日蓮正宗の信徒が占める割合は、二パーセント程度と思われますが、そうすると見舞金一千万の大半、約九十八パーセントは邪宗若しくは一部無宗教の道民に使われることになります。当然大謗法の学会員にも使われることになります。
 結果的に「此の経の行者」に供養したはずなのに日蓮正宗御信徒の浄財が、邪宗教の信者を助けるためになるのです。これが広宣流布に役立つとはとても思えません。「すり寄る」云々以前に、法華講員の御供養の使い方として明らかに間違っております。
 
 またわたしが記した「安楽行品第十四に『権力者に親近してはならない』及び仏法の根本理念として『平等大慧』がありますが」、以下について、疑義がございましたならば是非破折願います。

六、「天台教学を多用するに日如猊下」について

  最初に「貴殿は、「日興上人の思いは『天台の学問はしなくてもよい』との趣旨である」と独自の見解を並べますが、日興遺誡置文の正意は『大聖人の仏法を学ばずして天台を学んではならない』との正誡であり、貴殿の言い分は、明らかなる曲解です」とありますが、
 確かに「天台の学問はしなくてもよい」とは自身で読み返してみて、日興上人が「五人所破抄」で五老僧が天台沙門と表明していることを指弾し、大聖人の仏法を正しく後世に伝えるよう図られた厳しさとは程遠い、ぬるい考えであると反省しております。
 なお、通知書にある「大聖人の仏法を学ばずして天台を学んではならない」との言も、日興上人の正意ではありません。「義道の落居」とは単に「大聖人の仏法を学ばずして」ではなく「大聖人の仏法を会得せずして天台を学んではならない」意であると拝読いたしております。

②について
 私は日如猊下の「御指南集」そのものについては何も言っておりません。あくまで「御指南集」の出典元となっておられる各種講習、法要等でたびたび引用される「本未有善」の引用について本未有善そのものを御教示為されなければ、初心の法華講員に「本未有善」の天台教学の用語を理解できないのではないかと言っているにすぎません。私も最初は全く理解できず御書の「文句の十に云く、本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本善有らざるには不軽大を以て之を強毒す」を読み、少し理解が進んだ経緯があります。

 敢えて言うならば難解な「本未有善」等の天台教学を引用なされず、これから日々入信為される初心の御信徒の為にも例えば「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との日蓮大聖人の御金言にて、初心の御信徒の発心を促されてはいかがと思い記させていただきました。

 日蓮大聖人は立正観抄の冒頭で「当世天台の教法を習学するの輩多く、観心修行を尊んで法華本迹二門を捨つと見えたり」と厳しく指弾なされております。

 日蓮大聖人は御義口伝において天台の法華玄義・法華文句を度々引用されておりますが、その上で「御義口伝に行く」と末法の御本仏としての法門を解き明かされておられます。

 日蓮大聖人は報恩抄で
 「涅槃経と申す経に云く『法に依って人に依らざれ』等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり」

 さらに「真言見聞」では
 「無量義経十徳行品に云く、第四功徳の下『深く諸仏、秘密の法に入り演説すベき所、違無く失無し』」

 とありますように、日蓮大聖人が説く法門は「違無く失無し」つまり絶対です。
 日蓮大聖人に帰依する信徒は大聖人に一字一句違えずひたすら随順するばかりです。
 私も生涯、日蓮大聖人に随順し続ける決意です。
 
 藤原ご住職が記されたように私が「何故日蓮大聖人を愚弄罵倒することになるのか」全く理解が出来かねます。私が三度の建白書の中で一言一句でも日蓮大聖人を愚弄罵倒している箇所があったら是非お示し願います。 

七「日蓮大聖人に随順しない日に猊下」について

①について

 「四菩薩造立抄」に曰わく
 「私ならざる法門を辟案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替わりて人をして自身ともに無間大城に墮つべきにて候・つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり。
 総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹もお守り候べし、其れさえ尚、人人の御心中は量りがたし」

 繰り返しになりますが、「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」の御金言に違背することが最も戒めなければならない事です。
 是非「法華講員八十万人体勢構築」の根拠となる御書の御文をお示し願います。

②について
 
 また宗門の実情として私が記した「日如猊下が六十八世として登壇されてから早十三年。この間未来を託す鼓笛隊員は半減、本山任務者、御僧侶方は激減しております。この結果が全てを物語っております。すでに宗門は求心力を失っております」につきましてどのようにお考えなのか、御住職の破折はございませんでした。
 このほか御講参加者、登山参加者、講費納入者が減ってきていることは度々、日正寺法華講の幹部より報告されております。
 結論すると「法華講員八十万人体勢構築」の活動が、宗門並びに法華講の躍進に必ずしも結びついていないことは明らかです。
 一信徒の身として不遜であるとご批判なされるかと思われますが、今こそ一旦立ち止まり、広宣流布の方途について再検討すべき時期に来ているのではと憂慮いたします。

 折伏は最も重要であることは私も承知しており、日正寺の法華講員となって以来、私も微力ながら訪問・街頭・縁故知人・未入信家族への働きかけ等々の実践活動を継続し、少ないながらもご授戒、御本尊下付に導いてきており、共にお寺・時には相手先にて勤行の練習をさせて頂いております。

 最後になりますが、
「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり。愍衆生故とは日本国の一切衆生なり、生於悪世の人とは日蓮等の類いなり、広とは南閻浮提なり、此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり」

 との日蓮大聖人の御義・御金言に随順し、世界広宣流布実現まで死身弘法し邁進することを誓いさせて頂き、私の「弁疏」とさせて頂きます。

   日正寺法華講支部第一総区北新地区三班  三浦 常正

 日正寺住職
    藤原 広行   敬白






by johsei1129 | 2025-06-11 15:26 | 日蓮正宗 宗門史 | Trackback | Comments(0)


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