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日蓮大聖人『御書』解説

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2023年 05月 16日

寿量品談義 四

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六  日


 昨日の大旨は、経文の信解の二字について弥勒(みろく)等の大衆は信解(しんげ)並びに之れ有るべし。滅後末代の者は指せる解は無くとも、信心強盛に本門寿量の南無妙法蓮華経を唱ふべし。若し爾らば悪趣に生ぜず、開悟得脱決定(けつじょう)なりと宣べたり。

 問ふ、文証を聞くと雖も、現証を尚疑つて云く、火々と云へども手に取らざれば焼けず、水々と云へども口に飲まざれば水のほしさも止まず。南無妙法蓮華経と計り唱ふとも、義趣を解らずんば悪趣を免れんこと如何(いかが)有る可きや。

 御書十一・初に答ふ、縦ひ義趣を解せずとも、信心に住して題目を唱ふれば、成仏すべきこと疑ひなし。此の義を了せんと欲せば、先づ信の一字を詳(つまびらか)に之れを解釈すべきなり。

 初め字義、内外典に云云。句会廿・十八に愨実(かくじつ・まじめ)疑はず、差爽せざるなり。伊川裎氏云く、実を以て之れを信と謂ふ巳上。五薀論に云く、信は謂ふ符順の義なり私志二・八十三。天台文句九・七十七に疑ひ無きを信と曰ふ巳上。

 外典の意は先づまことと云ふ義面なるか、而も疑はず差(たが)へず云云。内典の意は符順の義も、無疑曰信の義も往いて門義なり、疑無きの義面なり。やがてそれはまことの義なり云云。

 先づ外典に於ても、信を以て肝要とすると見へたり。弘四末五十に云く、孔丘(こうきゅう)の言すら尚信を首(はじめ)となす、況んや仏法の深理、信無くして寧(むし)ろ入らんや。故に丘の云く、食をば尚去(すつ)べし、信をば去(すつ)べからず巳上。随つて論語為政篇第一・十八に、子曰く、人として信無くんば其の可なることを知らざるなり。管蠡三・卅七に臣範を引いて云く、君臣信あらざる則は国政安(やすらか)ならず、父子信あらざる則んば家道睦(むつまじ)からず、兄弟信あらざる則んば其の情親(したし)からず、明友信あらざる則んば交(まじわ)り絶え易し巳上。

 信は其の実にして偽(いつわり)をまじへず、いつまでも違はざるを云ふなり。若し爾らずして、うはべ計りにては不可なり。又曰く准南子に曰く、信を先にして而して後に能を求む巳上。能は芸能なり、万能一信と云云。又仁義礼智信の五常の中にも尤(もっと)も信を肝要とすと見へたり。何程仁あり義あり礼あり智恵ありとも、信無くんば無益の仁義なり。仍つて仁義礼智は必ず信を本として行ふと見たり。

 五常を以て木火土金水の五行に取る時は信は土に当たるなり。わる時は信は四季に土用に取るなり。管三・卅六の意なり。類雑六・廿五には、信を以て火に配す異説ありと見へたり。今は管蠡の意に准じて土用の四季に亘るが如く、仁義礼智に押し亘つて之れ有るなり。

 又土を地盤として木火水金之れ有る如く、信を以て根本として仁義礼智は之れ有るなり。且らく或儒者の物語を記するなり。仍つて妙楽大師は孔丘の言尚信を以て首と為すと釈せり。孔丘とは魯の国の昌平郷鄒邑に淑梁訖と曰ふ人あり、其の婦人、尼丘山の頂きを見て懐妊(かいにん)せり。周の霊王廿四年辛・亥十二月四日誕生せり、其の像・尼丘山に似たり、頂窪して水一舛二合を受くべき程なり。仍て名けて孔子と云ひ、名は丘と云ふも之れを以て知るべし、三国一・五丁に云く、仍て今孔丘と云ふなり。外典信を以て肝要と為(す)ること粗聞へたり。

 次に内典に信を以て肝要となすとは。

 弘四末五十に云く、華厳経に云く、信を道の元功徳の母となす巳上。一切の善法信に依つて生ずる故なり。大論一・十九に云く、仏法海の如し・唯信のみ能く入る巳上。信無くんば仏法の大海に入ることを得べからざるなり。天台大師止観四・五十九に云く、仏法海の如し、唯信のみ能く入る巳上。妙楽云く、仏法の深理信無くして寧ろ入らん云云。

 御書十六・六十五に、信を以て恵に代ふ、信の一字を詮と為す巳上。又廿一・七に唯信心肝要なり云云。其の外云云。

 然れば釈尊、竜樹、天台、妙楽、宗祖一同に信心肝要と釈説し玉へり。故に必ず成仏することは寔(まこと)に信心の功力(くりき)に依るなり。有解有信(うげうしん)の舎利弗等も解の智の力に依つて成仏するに非ず、信心の力に依つて成仏し玉へり。

 問ふ其の証如何。答へて云く、今経第二巻譬喩品に云く、汝・舎利弗尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり、況んや余の声聞をや。其の余の声聞・仏語を信ずるが故に此の経に随順す、己れの智分に非ず巳上。

 今の文の意は諸の声聞の中に勝れたる所の智恵第一の舎利弗・尚信を以て得道することを得たるを以て、余の劣れる声聞は尚信力にあらざれば得道なりがたし。仏語を信ずる故に、此の経に随順して得道せり。是れ己れが智分に非ずと説き玉へり。

 問ふ、何んぞ舎利弗を一切の声聞に勝れたりと云ふや。

 答ふ、仏弟子の中に、諸声聞に於て、舎利弗、目連尤も勝れたり。是れ則ち舎利弗は智恵第一の故に貴まる、目連は神通第一の故に貴まる。

 是の故に大論四十・廿六に、舎利弗は右面の弟子、目連は左面の弟子と云へり。目連神通の事・文二の初に云く、外道の師徒五百あり、咒を用ひて山を移す、一月日を経、簸峨として巳に動く。目連念言すらく、此の山若し移らば損害する所多からん、山の頂虚空の中にして結跏(けっか)せり。山還つて動かず、外道相謂ふらく、我が法は山動く、日を計るに必ず写りなん。云何ぞ安固にして還つて初めの如くなる、必ず是れ沙門の爾らし(使)むるならん。自ら力弱と知りて、心を仏道に帰す、無量人をして正法に出家せしむ巳上。

 又云く阿難陀、難陀の兄弟須弥の辺海に居、仏常に空を飛びて、忉利宮に上り玉ふ。是の竜嗔恨して曰く、何んぞ禿人我上より過ぐると、後時に仏、天に上らんと欲す。是の竜、黒雲周霧を吐き三光を隠翳す、諸の比丘咸く之れを降せんと欲す。仏聴き玉はず、目連の云く、我れ能く是の竜を降さん。竜身を以て須弥を遶ること七匝なり、尾海水に跳り、頭山頂を枕せり。目連傍に其の身を現じ、山を遶ること十四匝、尾海外に出で、頭梵宮を枕とす。是の竜嗔盛にして金剛の砂を雨らす、砂を変じて宝華と為す、怪輭愛すべし。猶嗔つて巳まず、目連化して細身と為り竜身の内に入り、眼より入りて耳に出で、耳より入りて鼻に出て、其の身を鑚齧す。即ち苦痛を受け、其の心乃ち伏しぬ。目連巨細の身を摂して沙門の像を示す。此の二竜を怪して、仏所に来至す巳上。此くの如き等の神通第一の目連なれども、尚舎利弗の智恵第一より立て振舞ふ処の神力には及ばざるなり。

 問ふ、其の証如何。

 答ふ、大論四十五・十に云く、仏・五百大羅漢を将(ひき)いて、阿那婆達多竜池に至り、遠離楽を受け、自身及び弟子の本業因縁を説かんと欲す。舎利弗在らず、仏目連をして之れを命ぜしむ。時に目連神通力を以て、祗洹に至る時、舎利弗衣を縫ふ。目連に語りて云く、少しく住せよ、衣を縫ひ訖るを待て、当に去るべし、目連を催促して疾く去る。時に目連手を以て衣を摩るに、衣即ち成竟る。舎利弗目連其の神通を貴ぶを見て、即腰帯を以て地に擲て語つて云く、汝此の帯を挙げ去れと、目連両手を以て帯を挙るに地を離るる能はず、即ち諸善定に入り、之れを挙ぐるに地為に大いに動けども、帯猶地に着す。時に橋陳如、仏に問ふ、何の因縁を以ての故に地大いに震動するや。仏言く目連甚深禅定に入り大神力を作し、舎利弗の帯を挙げて、挙げること能はず。仏○諸比丘に告ぐ、舎利弗入出する所の禅定は目連乃至其の名をも識らず巳上。実に神通第一の目連も智恵第一の舎利弗の所入の禅定をば目連尚其の名をも識らずと云云。豈貴きに非ずや。

 問ふ、身子智恵第一の相如何。

 答ふ、且らく一毛を示さば、文二・六十四に云く、難陀、跋難陀の二竜王舎城を護り、雨沢侍するを以て国に飢年無し。王及び臣民歳々大会を儲け、三の高座を置き、王と大子と論師となり。身子八才の身を以て会処に到りぬ。人に三の座を問ふ。人其れに之れを答ふ、即ち衆に越えて論の牀に登る。群儒皆耻て肯て論議せず。此の小児に勝ちて誉れを顕すに足る無し、脱(も)し其れ如(しか)ずんば屈辱大ならん。皆侍者を遣はし、語を伝へて之れに問ふ、答ふること問の表(ほか)に過ぎたり。尽く法の鐘を堕す、敢て当る者無し。王及び臣民称度無極なり。国正に太平ならんと智人世に出づと、年十六に及んで閻浮提の典籍を究尽し、事閑あらざるは無し。古に博く、今を覧る演暢幽奥なり。十六大国に論義双ぶもの無し、五天竺の地最為第一なり。沙然梵志に師とし事(つか)ふ、梵志の道術身子皆得たり。師に二百五十の弟子有り、悉く弟子に付す、而うして之れを成就す。沙念死に臨み听然として笑ふ。息子故を問ふ。答へて云く、世俗は眼無し、恩愛の為に親しまる、我れ見る金地国王の死するに、夫人火聚に投じて同じく一処に生れんと願ふと言ひ巳つて命絶へぬ。後金地の商人を見る、之れを問ふ果して爾なり。身子追て悔ゆ、我れ未だ師の術を尽さず。此の法を授けざること、我れ其の人に非る為に師の秘する自ら末達を知り更に勝法を求む。而るに師として事(つか)ふべきもの無し。此の一法に達せずと雖も余皆通達し、外道の中に於て最為第一なり。

 道に於て頞●の威儀痒序なるを見る。(●変換不能漢字。旱に頁)因つて師に法を問ふ、頞●答へて云く、説法縁より生ず。是の故に因縁是れ法縁尽に及ぶを説く、我が師是くの如く説く。一たび聞きて即須陀恒果を得、仏所に来至す。七日に遍く仏法の淵海に達す。又云く十五日後阿羅漢を得と巳上。

 現に八歳の時十六の大国五天竺に第一の論義者なれば其の智は測り難し。況んや十六才一閻浮提の典籍究尽し、仏家に帰入して七日に仏法の淵底を究め、十五日に阿羅漢を証すると云ふことは、凡の測る所に非るなり。大智恵に非るよりか、是れ何とか言はん。斯の大智恵の舎利弗なれどもすら、尚此の経に於ては信心を以て入ることを得。況んや舎利弗に劣る処の声聞をや。余の声聞も仏語を信じ、此の経を信ずる故に得記を得るなり。全く自己の智分に非ず、信心の力に依るぞと云ふことを、汝舎利弗尚此の経に於て信を以て入ることを得。乃至己れが智分に非ずと説きたまへり。

 天台大師・止観四・五十九に云く、法華の故に諸声聞等己れが智分に非ず、信を以ての故に入ると巳上。妙楽大師・弘四末五十に言く、信を以て入るを得とは、方等に於て弾せられ而も信心を生ぜずんば、安んぞ能く法華に至り記莂(きべつ)を受けることを得ん巳上。是れ則ち方等に於て弾呵を被り、小を恥じて大乗法華を慕ひ、信心を生ずる故に今記別を得て成仏するなりと釈し玉へり。宗祖大聖人十一・二丁、正直捨方便の法華経には以信得入と云ふなりと書し玉へるは是なり。此れは是れ信心を以て成仏すると云ふ明証なり。

 次に事を引いて例となす。

 弘四末五十に云く、和伽梨とは第一・本に云く、老年の者有り、初始出家いまだ識る所有らず僧伽藍に在り、ために少沙弥戯れて曰く、汝に初果を与へん。其れをして坐せしめて巳つて即ち毛毬を以て其の頭上に著く、語つて曰く此れは是れ初果なりと、信心を以ての故に即ち初果を獲、沙弥復これを弄んで曰く、是の如く前に依つて四度これをなし。第四果に至る巳上、文の意云云、

 又付法蔵伝に曰く、南天竺に俗姓の子有り、出家して道を学るに、自身に愛着し洗俗塗香好美飲食体肥壮得道するあたはず、毬多(きくた)の所に往いて勝法を受けんことを求む。学者着身を以ての故に誦を尽すを得ずと観知す。語つて云く、若し能く受ける者まさに汝に法を授くべし、答へて言く、教を受けん即ち大樹を化作し、其れをこれに上げらしむ。四辺変じて深坑となる。千仭(せんじん)にして右手を放さしむ。言の如く即ち放つ是くの如く次第に乃至都て放つ分に身命を捨て地に至る深坑及び大樹を見ざる法要を説くがために第四果を得巳上。

 此等の文は皆是れ一念の信心を以て第四果を得。或は少沙弥の言を信じ或は小乗の師の言を信ずるすら尚羅漢を証す。況んや大乗の菩薩の言を信ぜんをや。何に況んや仏の御言を信ぜんや。何に況んや正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てて、正法正師の正義たる本門寿量教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は即身成仏せざらんや。

 此の如き信心は至極肝要の義法なる故に釈尊丁寧に四度まで、をしかえし在世の大衆を誡しめ信心を勧め玉ひてあれば況滅後の末代の者は尚この信心を励まし玉ふべき事専らなり。

 誠に哀れなるかな一切衆生・其の根本を尋ぬれば我身即ち空仮中の三諦の妙法、法身・般若・解脱の三徳・法報応の三身の本覚の如来にてありと云へども妄心に由つて、煩悩・業・苦の三道となつて、無始より巳来・生々世々に流転するなり。是れ則ち本門寿量の妙法蓮華経を信じ奉らざるが故なり。彼の煩悩・業・苦の三道が則ち法身・般若・解脱の三徳、四徳常住の本覚の如来と顕はるることは疑ひ無きものなり。

 止一・七に云く、聞生死即法身煩悩般若法身業即解脱巳上、伝教大師牛頭決十一に云く、凡厥の妄心に由るの時これを三道流転と名づく、本心に帰る時これを呼んで四徳の勝用と称す。此の心性の本根は凡聖一如にして二如なし。これを本覚と名づく、巳に此れを知るを聖と名づく、此の理に迷ふを凡夫と号す巳上。

 意は凡夫は三道流転の三道とは、煩悩・業・苦の三道なり。煩悩とは見思・塵沙・無明等を云ふなり。業とは則ち造作の義にして口に云い・身に行ずる処の妄語・綺語・悪口・両舌・殺生・愉盗・邪淫等の五逆十悪等なり。此の煩悩と業とに依つて三悪道四悪趣・人間の四苦八苦・天人の五衰退没等の苦・惣じて六道生死の果趣を受くるを苦道と名くるなり。

 然れば三道流転と云ふも、源・三諦不思議の妙法に迷ふ処の迷妄の一念より起るぞと云ふ事を凡厥妄心に由る時これを呼び三道の流転と名づくと釈し玉へり。寔に有り難き義なるは、若し本門寿量の妙法蓮華経を信じ奉れば、煩悩・業・苦の三道の其の体を改めず煩悩が則ち般若智恵となり。報身如来と転じ、業縛の不自在は解脱自在万徳・応身如来となり。苦道は自ら不生滅の妙理と変じ即ち法身如来の正体と顕し、此の三身三徳に常楽我浄の四徳を備へて遷流生滅にも移されず、四苦にも値(あ)はず、煩悩にも染まらず、業のきつなにもつなかれず、自由自在の徳用を施す故に、是れを本心に帰す時はこれを呼んで四徳の勝用と称すと釈し玉へり。

 然れば仏と衆生と迷悟の不同こそあれ三諦の妙理に於ては少しも替る事なきに依つて心性の本源凡聖一如にして二如なし。是れを伝教大師・本覚の如来と名け此の理を知るを聖人と名け。此の理に迷ふを凡夫と号すと釈し玉へり。

 然れば面々我れ等が当体所具の煩悩・業・苦の三道、即法身・般若・解脱の三徳、法報応の三身如来なれども無始より巳来(このかた)妄心に由つて己心所具の妙理に迷ひてこれを知らず。

 然れば此の度・法華経に値ひ奉り、殊更教主釈尊・祖師大聖人の本懐に叶ひ本門寿量品を信じ奉り、朝夕本門事行の南無妙法蓮華経と修行する信者なれば即身成仏決定たり。

 御書廿三・十三、正直に方便を捨てて但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ、三観三諦即一心に顕れ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居所居・身土色心・倶体倶用・無作三身・本門寿量の当体の蓮華仏とは日蓮が弟子旦那等の事なり。是れ即ち法華の当体自在神力の顕はす所の功能(くのう)なり。敢えて疑ふべからず云云巳上。




by johsei1129 | 2023-05-16 11:32 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)


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