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日蓮大聖人『御書』解説

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2023年 05月 15日

寿量品談義 三

五  日


 註朗詠六・廿五に云く、壺中の天地は乾坤(けんこん)の外、夢裏身名、旦暮の間と巳上。仙家の中の幽栖の詩なり。註に云く此の詩の心は世上の無常を作るなり。上句の壺中とは、昔し唐の長安の市に常に薬うる老翁あり。其のかたち・いとあやしく、薬をうるにふたたびと直(あたい)を論ぜず、是れ何なる人と云ふことを知らず。其の時汝南(しょなん)の費長房と云ふもの市櫞(しえん)とて市(いち)の奉行なりしが、楼の上にて遥かに見れば、此の翁の一壺をおひて日暮る時人に知られずして壺の中にをどり入りけり。長房たびたび是れを見て、ただ人には非ずと知つて尋ね行いて逢つて然も敬い食物などすすめけるに、翁悦ぶ事限り無し、かくして年も経ぬれば翁長房に告げて云く、君に金骨の相あり、仙道を学ぶに堪へたり、日暮れて人なからん時来るべしと。教への如く日暮れて行きければ、我れに随つて壺の中にをどり入れと行つて翁先にをどり入る。長房つづきてをどり入りたれば壺の中に天地日月あり。宮殿楼閣めでたし、侍者数十人老翁をたすけ敬ふ、長房楽にあきみちながら猶故郷を忘れがたく思へるさまなり。老翁その気色を見て君帰らんと思はゞ、是れに乗つて行くべしとて一の竹の竿を与へければ、長房此の竹の杖に乗つて長安に帰りけり。此の竹を葛陂(かひ)と云ふ所の水の中になげ捨てければ杖急に青き竜となり天に登つて去りにけり巳上。

 神仙伝に見へたり乾坤とは天地なり。乾は天の性、坤は地の性なり。是れにて上の句は聞へたり、下の句は此の世を夢にたとへて、あした夕部をもしりがたしと云へり、夢の裏の身も名もあしたにや死なん、夕にや去りなん、無常なる事なりと云へり。惣じて二句の意は幽栖の詩なれば、此の山居の深き住居を彼の壺の中の天地に比して是れ世上乾坤(けんこん)の外と観ずるなり。此の境界から見る時は憂世の身名は只夢の間、はかなきよと云へる意なり取意。

 誠に爾なり。昨日ある人今日はなき、きのふも今日も鳥○野船岡山幾くかの人をか・をくりけん。其の人数にものがれて今日参詣すれば悦び勇んで南無妙法蓮華経と唱へ奉るべきなり云云。


 昨日までは分科に因んで之れを談ぜり。今日より経文の面を談ずべきなり。

 経に汝等当信解等と云云。天台大師文九七十七に疑無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ巳上。

 是れは一念信解の信解の二字の釈なれども、義通ずる故に之れを引くなり、若し是れを今の信解の二字に合せて之れを釈せば、先づ弥勒菩薩等、涌出品に於て未見今見の大菩薩を仏爾乃教化之令初発道心等と御説きなされて、幼稚の物どもなりしを我れ教化して弟子になしてこそあれと御説き成られてあるに付いて、仏は僅か四十余年巳来の新仏にて在すに、かかる老々白々たる高貴の大菩薩を弟子と仰せあるは、縦ひ仏説たりとも信じがたし。

 譬へば年廿四五ばかりなる者が、百歳の翁を我が子なりと云はんに、人信ずべからざるが如くでこそ在せ。たとひ我等は信ずるとも滅後末代の者は破法不信の故に、却って三悪道に堕すべき程に子細を説き玉へと疑って請じ玉ふ。

 此の故に今如来今其の子細を説き玉はん程に、其の父少きにして、子老ゆの疑なり。明了に信解すべして云ふ事を、汝等当信解如来誠諦之語と云云。具には下まで至るを、さて解とは智恵を以て闇昧なく、明了に了達する事なり。仍て明了曰解と云ふなり。弥勒菩薩は信も解も並にあるべし。末法今時の衆、本門寿量の妙法を聴聞するに、信心と智恵とが並に無くては叶はざるや。

 答ふ、廿一・七に云く、下根下機は只信心肝要なりと云へり。

 之れに付いて宗祖大聖人自ら四句の分別あり。一には有解無信、二には無解有信、三には有解有信、四には無解無信なり。

 第一有解無信とは、御書十一二に云く善星比丘は二百五十戒を持ち四禅定を得、十二部経を暗んぜし者なり。提婆達多は六万八万の法蔵を覚り、十八変を現ぜし。此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城に在りと聞く云云。意は御書註十二八に云く、経律異相は第廿一巻出曜経の第十四巻を挙ぐ。昔此丘有り名づけて調達(ちょうだつ)と曰ふ、聡明広学にして十二年の中、座禅入定して心移易せず、十二の頭陀初めより缺滅(けつげん)せず、乃至誦する所の仏経六万の象に載するに勝へず、後意転じて退して漸く悪念を生じ、人の供養を望み世の利用に着し世尊の所に至り、頭面に足を礼し、仏に白して言く、唯然世尊願くば神足の道を説け、我れ此れを聞き巳つて、当に善く修行すべし、又衆生を教化すべし、世尊告て曰く、汝今且らく神足を置け、何ぞ四非常の義、苦の義、空の義、無我の義を学ばざる。

 此の時・調達便ち此の念を生ず。如来我に神足の義を説かざる所以は、恐らくは己れに勝るる耻有らんことを。即ち如来を捨て舎利弗の所に往いて神足の道を求む、舎利弗も亦如来の如く答ふ、調達思惟すらく、此の舎利弗は智恵第一なれども何んぞ我智に及ばん。

 即ち去って目連に神足の道を問ふ、目連の答へも亦仏の如し、何んぞ四非常を学ばざる云云。調達憤怒す、我に与へざる所以は、其の我に如かざるを恐る。若し得巳ければ名誉無けん、去って吾が弟の阿難の所に往いて之れを問ふ。

 此の時、阿難為に之れを説く、調達聞き巳つて閑静の処に在り。心を専にして意を一にし、麁を以て微に入り、復微従り起りて還つて麁に至り、心を以て身を挙げ、身を以て心を挙げ、身心合し、漸々に地を離れ胡麻の如く転ずる。胡麻の如く漸く地を離れ、地従り床に至り、牀従り屋に至り、屋従り空に至り、虚空の中に在りて十変を作し、涌没自由なり巳上畧抄。十八変とは輔註四に云く、一に右脇より水を出し、二に左脇より火を出す、三に左より水を出し、四に右より火を出す。身の上下より水火を出す。四と為り前に並べて八と成る。九に水を履む事地の如く、十に地を履む事水の如し、十一には空中従り沒して亦地に現じ、十二には地に没して空中に現ず、空中に行往坐臥するを四となす。十七に或は大身を現じて空に満ち、十八に大復小に現ず巳上。

 前・善星比丘の事

 書註十七・廿七に云く経(北涅)三十三に云く、爾の時城中に一尼乾(にけん)有り、名を苦得と曰ふ。常に是の言を作す、衆生の煩悩因無く縁無し。衆生の解脱亦因縁無し。善星比丘復是の言を作く、世尊世間に阿羅漢有らば苦得を上と為す、我れ言く癡人、苦得尼乾は実に羅漢に非ず、阿羅漢道を了解する能はず。善星復言く何の因縁の故に羅漢、阿羅漢に於て嫉妬を生ずる我れ言く癡人なり。我れ羅漢に於て嫉妬を生ぜず、而るに汝自ら悪邪見を生ずるのみ。若し苦得是れ羅漢と云はば却って後七日当に宿食を患ふべし、腹痛して死なん。死し巳つて食吐鬼(じきとき)の中に生ぜん。其の同学の輩・当に其の屍を舁(かつ)ぎ寒林の中に置くべし。

 爾の時善星即ち苦得尼乾子の所に往いて語って云く長老汝今知るや否や。沙門瞿曇記す汝七日まで当に宿食を患ひ腹痛して死なん、死し巳つて食吐鬼の中に生ずべし、同学同師当に汝が屍を舁ぎ寒林の中に置くべし。長老好善を思惟し諸の方便を作して、当に瞿曇をして妄語の中に堕せしむべし。爾の時苦得此の言を聞き巳つて、即便(すなわ)ち食を断ち初一日従(よ)り乃至六日七日を満ち巳つて、便ち黒蜜を食す。黒蜜を食し巳つて復冷水を飲む、冷水を飲み巳つて腹痛して終る。終り巳つて同学其の屍を舁ぎ寒林の中に喪置す。即ち食吐鬼の形を受け其の屍の辺に在り。

 善星比丘此の事を聞き巳つて、寒林の中に至りて苦得が身受食吐鬼の形を見るに其の屍辺に在り、背を●め地に蹲(うずくま)る。(●変換不能漢字。足へんに雚。雚は小雀の意)

 善星語って言く大徳死せるや。苦得答へて云く、我巳に死す云何ぞ死せるや。

 答へて云く、腹痛に因つて死す、誰が汝の屍を出す。

 答へて云く、同学出す何れの処に置く。答へて云く癡人あり、汝今是れ寒林なるを識らざるや、何等の身を得る。答へて云く、吾れ食吐鬼の身を得る。善星諦に聴け、如来は善語し、真語し、時語し、義語し、法語す。善星に如来は口づから是くの如き実語を出す。汝爾のときに於て如何んぞ信ぜざる。若し衆生有りて、如来真実の語を信ぜずんば、彼れ亦当に我が此の身の如きを受くべし。

 爾の時善星即ち我が所に還り、是くの如きの言を作す。世尊・苦得尼乾は命終の後、三十三天に生れんと、我れ言く癡人なり。阿羅漢は生処有ること無し、云何ぞ苦得三十三天に生ると云はん。世尊実に言ふ所の如く苦得尼乾は実に三十三天に生ぜず、今食吐鬼の身を受く、我れ言く癡人なり。仏如来は誠言にして二無しと説く、若し如来に二言有りと言はば、是の処に有ること無し。

 善星即ち言ふ、如来爾の時に是の説を作すと雖も、我れ是の事に於て都て信を生ぜず、善男子我れ亦善星比丘が為に真実の法を説く、而れども彼れ絶へて信受の心無し。善男子、善星比丘は十二部経を読誦し四禅を獲得すと雖も乃至一偈一句一字の義を解せず、悪友に親近し、四禅を退失す。四禅を退し巳つて悪邪見を生じ、是くの如きの説を作す。仏無く、法無く、涅槃沙門有ること無し。瞿曇は善く相法を知る、是の故に能く他人の心を知る。我れ爾の時に於て善星に告げて言く、我が所説の法初中後善にして其の言巧妙なり、字義真正なり。説く所無雑にして具足し、清浄梵行を成就す。

 善星比丘復是の言を作く、如来復我が為に法を説くと雖も、而も我れ真実に因果無しと請ふ。善男子、汝若し此くの如き事を信ぜずんば、善星比丘今は近く尼連禅河に在り、共に往いて問ふべし。

 爾の時に如来即ち迦葉と善星の所に往き玉ふ、善星比丘かに我が来るを見れば、見巳つて即ち悪邪の心を生ず、悪心を以ての故に生身に阿鼻地獄に陥入す巳上。

 既に提婆は誦する所の御経六万の象に載するに勝へず、十八変を現ず。善星比丘は十二部経を暗(そら)んじ四禅定を得、是の故に解有りと云はるるなり。然りと雖も信心無き故に、善星も提婆も生身に無間地獄に堕在せり。此の事を善星比丘乃至今阿鼻大城に在りと聞くと書し玉へり。

 第二に無解有信とは、御書の次下に云く、又鈍根第一の須梨盤特(すりはんどく)は智恵もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り玉ふと。弘二末八十一に云く、盤特とは法句経第一に云く、仏舎衛(しゃえい)に有り、比丘有り、盤特と名づけ新出家と作る。

 禀性頑塞にして仏五百羅漢をして日々之れを教へむしむ、三年に始めて一偈を獲たり。今文阿含大論に依る故に九十日と云ふ、仏知りて愍傷し即ち呼んで前に著き一偈を授与す。偈に云く、口を守り意を摂して、身に犯す莫れ、是くの如き行者世を度するを得と。

 盤特仏恩の深きことを感じ、上口に誦得す。仏盤特に告ぐ、汝今年老ゆ唯頌一偈人皆之れを知る奇と為すに足らず、須く其の儀を解すべし。所謂身三・口四・意三、其の起る所を観じ、其の滅する所を察せよ。之れに由つて天に生じ、之れに由つて淵に堕し、之れに由つて道を得て泥恒(ないおん)自然に分別せん。乃至無量の妙法心開け、意解け阿羅漢を得ん。無遮に由るが故に、其の根鈍なりと雖も道果を得る事易し。

 巳つて五百の比丘尼、教誡説法を請ふ。次に盤特に当れば、彼に至り食し巳りて諸尼皆笑ふ。座に昇り巳りて自ら慚鄙して云く、自幸薄徳にして沙門たるを得、究めて頑鈍と為す。学ぶ所の一偈粗其の儀を識る、為に敷説すべし。諸少年の尼、先より其の偈を知る。預(あらかじ)め前に誦せんと欲するに口開く能はず、驚怖して過を悔ゆ。盤特是に於て仏説の次第に依り敷演するに、諸尼皆阿羅漢果を得たり。巳上。

 三国八卅類雑二九に、僅かに二句十四字を三年に覚えたる程の人なれば、尤も解智才覚無し。然りと雖も如来比の儀を粗説き聞かしめ玉へば、信心を以ての故に得意し、羅漢果を証し、終に法華に至りて普明如来と成り玉ふなりと言ふ事を、又鈍根第一乃至普明如来に成り玉ふと書し玉へり。

 第三に有解有信とは則ち迦葉舎利弗なり。御書に云く、迦葉舎利弗等は有解有信の者なり。仏の授記を蒙り、華光如来光明如来と云はれし云云。是れは常々の如く、解有り信の有る人々なり。

 第四に無解無信とは、有解無信すら尚堕獄せり、況んや無解無信の者をや云云。然れば智解無く、信心無き者は堕獄すべし。又解智有りとも、信心有らん者は成仏必定なり、迦葉、舎利弗の如きなり。是れは在世の時は信心も智恵解もあり、今末法の代なれば解智は一分もなし只々信心大切なり。信心さへ強盛に本門寿量の南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、かの無解有信の盤特の法華に来りて普明如来となりしが如く、本門当体の蓮花仏とならんこと疑ひ無し云云。若し爾らば解智無くとも、信心強盛に唱題肝要なり。

 問ふ、何なる子細を以て、信心は智恵より勝れたるや。

 答ふ、之れに付て重々の道理、文証、現証あるべし。委細は明日之れを談ずべし。今日は文証の一二を引き略して之れを宣ぶべし、一には涅槃経第三十五巻に云く、是の菩提の因無量有りと若し信心を説けば則ち巳に摂尽す巳上。

 文の菩提の因は或は世間の財宝を抛(なげうっ)て仏法僧の三宝を供養し、或ひは堂塔伽藍を建立し、或ひは一品二品を読誦し、或ひは一四句偈を受持し、或ひは観行をなし、或ひは妙名を唱ふる等、種々無量の因之れ有りと雖も、若し信心を説けば則ち皆巳に摂し収るぞと云ふ意なり。

 譬へば或は花咲き或は菓なる、草木は無量無辺之れ有るなり。所謂桜梅、桃李、紫蘭、黄菊等なり、此くの如く種々の草木無量なれども、若し大地の所生と云はば摂尽し収まるが如くなり。何程(いかほど)三宝を供養し、塔堂を建立し、一偈一句を誦すとも、若し信心無くんば、彼の桜梅、桃李、紫蘭、黄菊を掘り出して置きたるが如くなるべし。皆乾し失せぬべき事決定なり。若し信心の大地に植え置けば皆悉く菓なり、或は花咲き菩提の因となるべきなり。

 所詮信心は大地の如く、菩提の因は草木の如しと得意べきなり。若し信心の大地を語すれば余の草木は収まるなり、或は経をよみ観行をなすは智恵の行なれども皆信心の台地に収まるなり。是れを以て智恵より信心の勝る事を知るべきなり

 二は本業瓔珞経下巻大衆受学品に云く、若し一切衆生初に三宝海に入り信を以て本と為す巳上。大海に塵を択ばずとも本より無差平等の徳を備へて一切江河、若しは塵垢の種々の不浄の者流れ入るとも少しも隔て之れ無きなり。其の如く仏法僧の三宝も何なる悪人女人なりとも隔て玉ふ事なく無差平等に皈入せしめんと思し召す故に、初に三宝海に入ると云へり。此の平等の三宝海に入るには何物が根本となるぞと云う事を、信を以て本と為すと説き玉へり。

 現に信心を根本と説き玉ふ故に恵解等は尚枝葉なり。其の根本を挙ぐるは枝葉を摂むる道理なれば信心是れ勝れたり。仍(すなわち)宗祖は十一に双林最後の涅槃経には、是の菩提の因無量有りと雖も、若し信心を説けば則ち巳に摂尽す等云云。夫れ仏道に入る根本は信を以て本と為すなりと書し玉へり。

 然れば面々はさせる解は無けれども、教主釈尊の金言・祖師大聖人の本懐に相叶ひ信心強盛に本門寿量の南無妙法蓮華経と信行あれば、三悪四趣に恐れなく即身成仏必せり。

 御書十一に、而るに今の代の世間の学者には、只信心計りにて解(さと)り無く南無妙法蓮華経は唱ふる計りにて、争でか悪趣を脱るべき等云云。此の人人は経文の如くんば阿鼻大城を脱れ難し。

 然れば指したる解無くとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば悪道を免るべきなり巳上。




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by johsei1129 | 2023-05-15 10:38 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)


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