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日蓮大聖人『御書』解説

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2023年 05月 14日

寿量品談義 二

 四  日


 昨日開近顕遠の寿量品は偏(ひと)へに滅後末法の衆生の為説き玉ふ事を談ぜり。

 寔(まこと)に教主釈尊此の寿量品を演説して、上行菩薩に付属して、遥かに滅後末法の各々方々に与へ玉ふに依つて、宗祖大聖人は仏勅を重んじて、大難小難、無量の大難を凌いで、日本国に此の本門寿量の妙法蓮華経を御弘め成らされてあるなり、仍て易々と丁聞して之れを唱へ行ずれば、即身成仏する事決定なり。

 是れ偏へに仏祖の大慈悲、妙法蓮華経の功力に依るなり。若し爾(しか)らば寿量品の妙法を弘通せば、何様の事ありとも万端を抛(な)げ捨て参詣して、丁聞し本門寿量の南無妙法蓮華経を唱へ奉り報恩謝徳に擬し玉はん事専らなり。

 弘八末に云く大論に云く、楽法梵志十二年に於て閻浮提に遍じて聖法を知らんことを求めて得ること能はず、時の世に仏法亦尽きたり、婆羅門有りて云く、我れに聖法の一偈有り、若し実に法を楽(ねが)はゞ当に以て汝に与ふべし、答へて云く実に楽ふ婆羅門の言(いわ)く、若し実に法を楽はゞ当に皮を以て紙と為し、骨を以て筆と為し、髄を以て水と為し、血を以て墨と為(せ)よ。

 即ち其の言の如く書して仏偈を得たり。偈に云く法の如く応に修行すべし。法に非ざるをば応に行ずべからず。今世若し後世・法を行ずる者安穏ならん。

 又有る説に云く、魔来りて楽法を誑(たぶら)かし皮を剥が令むと等とは、楽法の意を退せんと欲す。楽法意堅くして即便ち皮を剥ぐ等、魔便ち隠れ去る。下方の仏其れが為に偈を説くを感ず巳上。意に云く御書九・五十三に少なく候なり、又薬王菩薩日月浄明徳仏の所にして一切衆生喜見菩薩と申せし時、彼の仏及び法華経の為の故に七万二千歳の間百福荘厳し譬を焼きて供養し玉ふなり。又雪山童子は半偈の為に身を捨て玉へり。此れ等は皆是れ正法を求むる故に皆身命を捨て玉へり。今幸ひに本門寿量品を弘宣するに何ぞ参詣せざらんや、何ぞ夢中の世事に拘つて信心を励まざらんや云云。

 誡信下文九に広開近顕遠文に二、先は誡信、次は正答巳上。広開近顕遠は向の如し、先は誡信、次は正答とは、爾時仏告と云ふより汝等諦聴と云ふまでは誡信なり、如来秘密神通之力と云ふより速成就仏身までは、久遠実成真実己証の法門たる三身常住三世益物の相を宣べて弥勒疑問を答へ玉ひてあれば正答と云ふなり。さて誡信とは本疏に仏旨誡を論ず、衆受けて信をなす巳上。仏旨と云ふを輔記九・十七旨は意旨なりと指南し玉ふ故に仏の御意と云ふ事なり。

 誡の字はいましむると云ふ字なり。句会廿・初に説文に勅なり、広句に言く警なり、増句に警勅の辞に誡と曰ふ巳上。

 然れば仏の御勅言・宣旨あつて一会の大衆を誡しめ玉ふを誡と云ふなり。此の事を仏旨論誡と云ふなり。汝等当信解、如来誠諦之語云云。此の文は只今久遠寿量の誠諦之語を説くべし、汝等も疑をなさず解了せよといましめ仰せ付らるゝ宣旨なるに依つて是れを誡と云ふ事を仏旨論誡と云云。

 次ぎに衆受けて信をなすとは、仏既に丁寧に誡し玉ひて有るに依つて弥勒菩薩等の一切の大衆が申し上げるは、唯願説之・我等当信受仏語と云云。唯願はくば之れを説きたまへ、少しも疑ひを作さず信受し奉るべしと仏へ四度まで申し上げられたるを、信と云ふぞと云ふ事を衆受為信と云云。

 誡信の二字粗聞えたり、此の誡信に付いて、三誡、三請、重請、重誡、之れ有り、所詮意を取りて之れを宣べば、如来四度誡しめ玉ふを誡と云ふひ、大衆四度請するを信と云ふなり、如来誡しめ玉ふ中にも自ら勧信の義あり、仍つて経には汝等当信解とあるなり、誡門勧門とは相離れざる者なり。

 記五末・卅四に云く、勧誡有りと雖も、只是れ便に因つて誡しむとのみ云へり、然れば誡とは疑ふ事なかれと誡しめ信じ奉ると勧むるなり。謂く今誠諦真実の久遠実成の法門を説かん程に少しも疑ひなく信じ奉れと云ふ事なり。

 又大衆の請ずるを信とのみ云へども自請あるなり。故に次下には重請と云へり、故に知んぬ、信じ奉る程に願くば之れを説き玉へと請するなり。さて始めの疑ひを誡しめ、信を勧め玉ふに付き、世出倶に此の誡勧の二に過ぎざるなり。故に仏法の大要にてあるなり。

 世間にも誡と勧と二力無くては叶はざるなり。譬へば親が子に教ふるに悪事をなすべからず、悪人のまねすべからず、悪き友に交はるなと云ふは誡なり。善人のまねをせよ、善い友に交はれと云ふは勧と云ふ者なり。

 外典の中にも其の趣之れ有りと見へたり、中庸に云く、道は須臾(しばらく)も離るべからず、離るべきは道に非ざるなり巳上。註に曰く、道とは日用の事物当に行ふべくの理巳上。事物当行の道とは、五倫の道には過ぐべからず。孟子に云く、君臣義有り、父子親有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り巳上。君は仁政を行ひ札を以つて使ひ、臣は忠を以つて君につかふ。此の義あれば君臣の道立つ、此の義を失はば君臣の道立たぬなり。父子親有りとは子を恵み資け、子は父を愛し敬ふ、此の親有るは則道なり、此の親なければ則道に非るなり。夫婦別有りとは夫婦とは男女なり。天地の始・男女なけれは人倫亡き故に、男女を以て人倫の根本とす。然れども男と女とは各差別あり乱すべからず、或は同じ座敷に居ぬ同処に衣服を着けず、閨門の間内外のへだてあるべし。此くの如く別あるが夫婦の道にして後々まで偕老の契りを結ぶなり。此れ則ち別あるが則夫婦の道なり。

 長幼に序有るなり。長幼は兄弟の事なり。先に生るるを長とし兄とし、後に生るるを幼とし弟とするなり。人の生るる前後あれば兄弟となるなり・序ありと云ふは、譬へば道を行くには兄さきに行き弟はあとより行く、座に着くにも兄は上座に居は弟は下座に居る等なり。是れ長幼序有りと云ふなり。此の序有るが則道なり。朋友信有りとは朋友の間は互ひに信(まこと)を以つて交ふれば其の道末とげてよきなり偽(いつわり)あればやがて中終する者なり。此の朋友には信あるが則道なり。

 然れば此くの如く君臣、父子、夫婦、長幼、朋友、各其の道あり、此の道は須臾(しばらく)も離るべからざるなり。離るべきは道に非ずと云ふは是れ勧めたるものなり。

 若し君として仁政を行はず不礼にして臣として忠節を作さず、父として子を恵まず、子として父を敬まはず、朋友に交はるに信あらざる等は此れは是れ無道なり。今の文の裏で此の無道をば永く離るべしと云ふ意あれば則誡なり。然れば何程の言句ありとも、聖人賢人の教と云ふは悪を誡しめ善を勧むるには過ぎざるなり。浅深不同こそあれ仏法も此の誡勧の二門に過ぐべからざるなり。

 弘四末・五十一に云く、覆器とは信無き故に器の覆(くつがえ)るが如し。大論に云く、羅云自小にして多く妄語を喜ぶを妄語を以ての故に無量の人をして仏を見ること得ざらしむ、仏之れを調せんと欲し遠行して還り水を汲ましむ、仏脚生るを澡盤覆へる、其れをして水を注がしむ。答へて云く、器覆つて水入らず、仏云く汝覆器の如し、法水入らず種々呵責したまふ、今譬疑を借る巳上。

 文意に云く此中にも仏羅云ふに妄語を誡しめ玉ふは誡門なり。自ら重ねて実語を以てせよとあるは勧門なり。今亦此くの如し。今久遠実成真実己証の法門を説く程に少しも疑ひ無く信じ奉れ、若し少しも疑はば彼の器の覆へりたるに水の入らざる如く本地難思の境智の妙法の法水が汝等が己心中に入るべからざる程に少しも疑ひ無く信じ奉れと誡勧し玉ふぞと云ふ分科の意なり。然れば在世滅後時は異なれども・いつにても信心無き者は覆器の如し。仍つて妙楽大師は覆器とは信無き故に器の覆へるが如しと釈し玉ひて尤も信心肝要なり。

 問ふ、吾等は如何様に疑ひ無く、如何やうに信じ候べきや。

 答ふ、信とは疑ひ無きを信と曰ふなり。之れに付いて止四・五十六に云く、疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ巳上。弘四末・四十四に云く、疑に過ち有りと雖も然かも須らく思択すべし、自身に於ては決して疑がふべからず。師法の二疑須(すべか)らく暁(あき)らむべし、若し疑はずんば或ひは当に復邪師邪法に雑はるべし、故に応に熱して疑ふべし、善く思ひ之れを択べ、疑を解の津(しん)と為すは此の謂れなり。師法巳に正ならば法に依つて修行せよ、爾の時に三疑永く須く棄つべし巳上。

 自身に於て決して疑ふべからずとは、不変真如の眼の前には十界悉く法性、妙法蓮華経の当体の水なり。而るに我等は寒気して悪縁に値ひて九界の衆生の氷となれり。然りと雖も此れ又如日天子たる本門寿量品の肝心、妙法蓮華経の浄縁の光に値ひ奉れば、其の儘(まま)我等が悪業煩悩の氷解けて根本の妙法蓮華経の水となり即身成仏すること決定として疑ひ無き義なれば、少しも疑ふべからずと云ふ事を自身に於て決して疑ふべからずと釈せり。

 尚亦現証を伺ふに、今日の教主釈尊は直ちに凡身より仏果を感じ玉へり。南岳天台は六根五品の位に叶ひ、和国の性空上人は法ケ読誦の功力に依りて現身に六根清浄を得玉へり。何んぞ我身底下の凡夫にして道の器に非ずと疑ふべしや。

 然れば正法・正師に依つて修行せば即身成仏せんこと掌中の視菓の如し云云。師法の二疑は須く暁むべし等とは、若し大途を取りて之れを言はば釈尊五十年の説法を尋ぬるに無量無辺なりと云へども権実迹本を出でざるなり。文九・五十六に云く、諸仏五濁に出る、必ず前三後一、先近後遠なり巳上。

 先づ権実とは約教約部の判あり。約教の時は爾前の蔵通別の三教は権教麁法(そほう)なり、円は妙なり実なりと明すなり。重々の義有りと雖も且らく之れを略す。

 約部の時には華厳、阿含、方等、般若の前四時を以て権教麁法と定め、第五時法華を以つて実教妙法と定むるなり。是れ天台一家の大判なり。

 竹一本・五十一・先づ四教に約して以て麁妙を判ずる則(とき)は、前三を麁となし、後一を妙となす。次に五味の為に以て麁妙を判ずる則は、前四時を麁となし、醍醐を妙となす巳上。竹三・十六に云く、先に四教に約して判じ、次に五味に約して判ず、若し教を明さざる則は教妙を知らず。若し味に約せざる則は部妙を知らず。下に云く、一切の判麁妙の文悉く皆此に例せよ巳上。無量義経の四十余年末顕真実とは是れなり。亦約教約部の中に約部正意なること。

 中  正

 然れば権実相対の時、爾前は権法麁法なりと云ふ事分明(ふんみょう)なり。次に本迹相対の時、爾前迹門十四品を惣じて麁法権法と定め、本門を以て妙法実教と定むるなり。

 問ふ、其の証文如何。

 答ふ、玄第七に本門十妙を釈す。十妙の一云云・一に近きの故に、二に浅深不同の故、三に払らはるる故の三義を以て爾前迹門の迹因迹果。迹因とは迹の感応、迹の神通、迹の説法等を皆悉く方便なりと打ち破つて本因、本果、本国土乃本説法是れを真実と定め畢つて次下に至りて更に判麁妙、判権実二科を立てて丁寧に迹門、麁法、権法、本門、妙法、実教ぞと釈し玉へり。玄七・卅七に云く、始得を麁となし先得を妙となす巳上取意。始成正覚と説くは但為以方便教化衆生の故に麁なり、先得為妙とは我実成仏の故に真実妙なり。

 玄七・卅八に云く若しは権、若しは実、悉く皆是れ迹、迹の故に権と称す巳上、又卅の六に云く、通じて本迹を論ずる只是れ権実と云云。是れ迹門を以て権と名づけ本門を実とするなり。然れば迹門は麁法権教、本門は実教妙法なること必然なり。

 問ふ、若し爾らば爾前は定めて麁法なり権法なり、能弘の師・亦権師なり。迹門は或は実と云ひ権と云ふ、或は妙と云ひ麁と云ふ故に其の能弘の師亦或は権師・或は正師なるべし、本門には一向正法正師と見へたり、何れを信ずべきや。

 答へて云く、汝が疑は則ち妙楽大師の二疑須暁の義に当たれり。今暁して云く、先爾前四十余年は権教麁法なり其の師は権利師なり。剰(あまつさ)へ権教を以て実教を打つ故に邪法邪師となるなり。若し迹門を以て面として弘通したまふは、天台伝教の如く正法なり正師なり。是れ則ち像法の弘通にして今末法に入れば去年の暦の如し。末法の今時は爾前の邪法邪師を打ち捨て、迹門の師法の二をも打ち除き、只本門寿量品の妙法並びに本門寿量の妙法を弘通する師を信ずべきなり。

 問ふ其の証如何。

 答へて云く、一に能弘の師の本地を論ずるに既に本化の菩薩なり、所属の法体を論ずるに本門寿量の妙伝なり、所破の機を論ずるに本門の直機(じっき)なり。亦今の時は寿量品の肝要妙法蓮華経流布すべき時なり、

 観心本尊抄廿一に云く、所詮迹化(しゃっけ)他方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の始は謗法の国・悪機なるが故に之れを止めて地涌千界の大菩薩を召し、寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以て閻浮提(えんぶだい)の衆生に授与せしむるなり。

 此の文の中に師も法も機も時もあり。見るべし中ん就(ず)く能弘の師と所属の法と分明なり。

 御書卅八・六に云く、立正観抄に云く、本化弘通の所化の機は本門の直機なり巳上。

 撰時抄五・廿三に、寿量品の肝要南無妙法蓮華経末法に流布すべきなり巳上。

 権教権門の族は且らく之れを置く、大聖人の流れと云ふ学者・此等の文を看て、末法今時に本門寿量の妙法を信ずべしと云ふ事分明なるに非ずや。

 録外十五・卅の三大秘法抄に云く、末法の初の五百年は法華経の本門前後十三品を閣(さしお)いて只寿量の一品を弘通すべき時なり巳上。

 若し爾らば権教等の邪法邪師の邪義を打ち捨て、本門寿量の妙法並びに此の法門を弘むる師を信ずべしと云ふ事分明なり。是くの如く聴聞する上に於て、師をも法をも少しも疑はず信じ奉れと云ふ事を師法巳に正しく法に依つて修行せよ、爾時三疑永く須く棄つべし巳上。然れば面々も釈尊・天台・妙楽、祖師大聖人の本懐、相叶ひ本門寿量の妙法を信じたてまつる故に即身成仏必せり。

 御書廿三・廿四に云く、然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体の蓮華を証得し常寂光の当体の妙理を顕すことは、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経を唱ふる故なり巳上。

 



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日寛上人発願 大石寺五重塔




by johsei1129 | 2023-05-14 19:09 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)


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