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日蓮大聖人『御書』解説

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2021年 11月 04日

仏説観普賢菩薩行法経 (3)  訓読

   漢訳

是の時に諸仏、復光明を放って行者の身を照らして、其の身心をして自然に歓喜せしめ、大慈悲を発し普く一切を念ぜしめん。爾の時に諸仏、広く行者の為に大慈悲及び喜捨の法を説き、亦愛語を教え六和敬を修せしめん。爾の時に行者、此の教勅を聞き已って心大いに歓喜して、復更に誦習して終に懈息(けそく)せざらん。
空中に復微妙の音声あって、是の如き言を出さん、

汝今応当に身心に懺悔すべし。身とは殺、盗、婬、心とは諸の不善を念ずる、十悪業及び五無間を造ること、猶お猿猴のごとく亦黐膠(ちきょう)の如く、処処に貪著して遍く一切六情根の中に至る。此の六根の業、枝条華葉悉く三界、二十五有、一切の生処に満てり。亦能く無明、老、死、十二の苦事を増長す。八邪、八難、中に経ざることなし。汝今応当に是の如き悪不善の業を懺悔すべし。

爾の時に行者此の語を聞き已って、空中の声に問い奉る、

我今何れの処にしてか懺悔の法を行ぜんと。

時に空中の声即ち是の語を説かん、
釈迦牟尼仏を毗盧遮那遍一切処(びるしゃなへんいっさいしょ)と名づけたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名づく。常波羅蜜に摂成せられたる処、我波羅蜜に安立せられたる処、浄波羅蜜の有相を滅せる処、楽波羅蜜の身心の相に住せざる処、有無の諸法の相を見ざる処、如寂解脱、乃至般若波羅蜜なり。是の色常住の法なるが故に。是の如く応当に十方の仏を観じたてまつるべし。
時に十方の仏、各右の手を申べて行者の頭を摩でて、是の如き言を作したまわん。
善き哉善き哉、善男子、汝今大乗経を読誦するが故に、十方の諸仏懺悔の法を説きたもう。菩薩の所行の結使を断ぜず使海に住せず。心を観ずるに心なし。顚倒の想より起る。此の如き相の心は妄想より起る。空中の風の依止する処なきが如し。是の如き法相は生ぜず没せず。何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪、福も主なし。一切の法は是の如く住なく壊なし。是の如き懺悔は心を観ずるに心なし。法も法の中に住せず。諸法は解脱なり、滅諦なり、寂静なり。是の如き相をば大懺悔と名づけ、大荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ破壊心識と名づく。此の懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、猶お流水の如し。念念の中に普賢菩薩及び十方の仏を見たてまつることを得ん。
時に諸の世尊、大悲光明を以て行者の為に無相の法を説きたもう。行者、第一義空を説きたもうを聞き奉らん。行者聞き已って心驚怖せず。時に応じて即ち菩薩の正位に入らん。
仏、阿難に告げたまわく、

是の如く行ずるをば名づけて懺悔とす。此の懺悔とは十方の諸仏、諸大菩薩の所行の懺悔の法なり。

仏、阿難に告げたまわく、
仏の滅度の後、仏の諸の弟子、若し悪不善業を懺悔することあらば、但当に大乗経典を読誦すべし。此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法因なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供(おうぐ)の中の最なり。其れ大乗方等経典を読誦することあらば、当に知るべし。此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり。
爾の時に世尊、而も偈を説いて言わく、

若し眼根の悪あって 業障の眼不浄ならば 
但当に大乗を誦し 第一義を思念すべし
是れを眼を懺悔して 諸の不善業を尽くすと名づく
耳根は乱声を聞いて 和合の義を壊乱す
是れに由って狂心を起すこと 猶お癡なる猿猴(えんこう)の如し
但当に大乗を誦し 法の空無相を観ずべし 
永く一切の悪を尽して 天耳をもって十方を聞かん
鼻根は諸香に著して 染に随って諸の触を起す 
此の如き狂惑の鼻 染に随って諸塵を生ず
若し大乗経を誦し 法の如実際を観ぜば 
永く諸の悪業を離れて 後世に復生ぜじ
舌根は五種の 悪口の不善業を起す
若し自ら調順せんと欲せば 勤めて慈悲を修し 
法の真寂の義を思うて 諸の分別の想なかるべし
心根は猿猴の如くにして 暫くも停まる時あることなし
若し折伏せんと欲せば 当に勤めて大乗を誦し 
仏の大覚身、力無畏の所成を念じたてまつるべし
身は為れ機関の主 塵の風に随って転ずるが如し 
六賊中に遊戯して 自在にして罣礙なし
若し此の悪を滅して 永く諸の塵労を離れ 
常に涅槃の城に処し 安楽にして心憺怕ならんと欲せば 
当に大乗経を誦して 諸の菩薩の母を念ずべし
無量の勝方便は 実相を思うに従って得
此の如き等の六法を 名づけて六情根とす
一切の業障海は 皆妄想より生ず
若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え
衆罪は霜露の如し 慧日(えにち)能く消除す
是の故に至心に 六情根を懺悔すべし

是の偈を説き已って、仏、阿難に告げたまわく、
汝今是の六根を懺悔し普賢菩薩を観ずる法を持って、普く十方の諸天、世人の為に広く分別して説け。仏の滅度の後、仏の諸の弟子若し方等経典を受持し読誦し解説することあらば、応に静処の若しは塚間(ちょけん)、若しは樹下、阿練若処(あれんにゃしょ)に於いて、方等を読誦し大乗の義を思うべし。念力強きが故に我が身及び多宝仏塔、十方分身の無量の諸仏、普賢菩薩、文殊師利菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩を見たてまつることを得ん。法を恭敬するが故に諸の妙華を持って空中に住立して、行持法の者を讃歎し恭敬せん。但大乗方等経を誦するが故に、諸仏、菩薩昼夜に是の持法の者を供養したまわん。
仏、阿難に告げたまわく、
我賢劫の諸の菩薩及び十方の仏と、大乗真実の義を思うに因るが故に、百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却しき。此の勝妙の懺悔の法に因るが故に、今十方に於いて各仏となることを得たり。若し疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ぜんと欲せん者、若し現身に十方の仏及び普賢菩薩を見んと欲せば、当に淨く澡浴して淨潔(じょうけつ)の衣を著(き)、衆の名香を焼き空閑の処に在るべし。応当に大乗経典を誦読し大乗の義を思うべし。

仏、阿難に告げたまわく、
若し衆生あって普賢菩薩を観ぜんと欲せん者は、当に是の観を作すべし。是の観を作す者是れを正観と名づく。若し他観する者是れを邪観と名づく。仏の滅度の後、仏の諸の弟子、仏の語に随順して懺悔を行ぜん者は、当に知るべし、是の人は普賢の行を行ずるなり、普賢の行を行ぜん者は悪相及び悪業報を見じ。其れ衆生あって、昼夜六時に十方の仏を礼したてまつり、大乗経を誦し、第一義甚深の空法を思わば、一弾指の頃に百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん。此の行を行ずる者は真に是れ仏子なり、諸仏より生ず。十方の諸仏及び諸の菩薩、其の和上(わじょう)となりたまわん。是れを菩薩戒を具足せる者と名づく。羯磨(かつま)を須いずして自然に成就し、応に一切人天の供養を受くべし。

爾の時に行者若し菩薩戒を具足せんと欲せば、応当に合掌して、空閑の処に在って遍く十方の仏を礼したてまつり、諸罪を懺悔し自ら己が過を説くべし。然して後に静かなる処にして十方の仏に白して、是の言を作せ、
諸仏世尊は常に世に住在したもう。我業障の故に方等を信ずと雖も仏を見たてまつること了かならず。今仏に帰依したてまつる。唯願わくは釈迦牟尼仏正遍知世尊、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧を以って我に清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我を憐愍するが故に亦我が菩薩の法を受くることを聴(ゆる)したもうべし。十方の諸仏、現じて我が証と為りたまえ。諸大菩薩各其の名を称して、是の勝大士、衆生を覆護(ふご)し我等を助護したまえ。今日方等経典を受持したてまつる。乃至失命し設い地獄に堕ちて無量の苦を受くとも、終に諸仏の正法を毀謗せじ。是の因縁、功徳力を以っての故に、今釈迦牟尼仏、我が和上と為りたまえ。文殊師利、我が阿闍梨と為りたまえ。当来の弥勒、願わくは我に法を授けたまえ。十方の諸仏、願わくは我を証知したまえ。大徳の諸の菩薩、願わくは我が伴と為りたまえ。我今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依すと。
是の如く三たび説け。三宝に帰依したてまつることを已って、次に当に自ら誓って六重の法を受くべし。六重の法を受け已って、次に当に勤めて無礙の梵行を修し、曠済の心を発し八重の法を受くべし。此の誓を立て已って、空閑の処に於いて衆の名香を焼き華を散じ、一切の諸仏及び諸の菩薩、大乗方等に供養したてまつりて、是の言を作せ、
我今日に於いて菩提心を発しつ。此の功徳を以って普く一切を度せん。
是の語を作し已って、復更に一切の諸仏及び諸の菩薩を頂礼し、方等の義を思え。一日乃至三七日、若しは出家、在家にても、和上を須いず諸師を用いず白羯磨(びゃくかつま)せざれども、大乗経典を受持し読誦する力の故に、普賢菩薩の助発行の故に、是れ十方の諸仏の正法の眼目なれば、是の法によって自然に五分法身、戒、定、慧、解脱知見を成就す。諸仏如来は此の法より生じ、大乗経に於いて記莂を受くることを得たまえり。是の故に智者、若し声聞の三帰及び五戒、八戒、比丘戒、比丘尼戒、沙弥戒、沙弥尼戒、式叉摩尼戒及び諸の威儀を毀破し、愚癡、不善、悪邪心の故に多く諸の戒及び威儀の法を犯さん。若し除滅して過患なからしめ還って比丘となって沙門の法を具せんと欲せば、当に勤修して方等経典を読み、第一義甚深の空法を思うて、此の空慧をして心と相応せしむべし。当に知るべし。此の人は念念の頃に於いて、一切の罪垢永く尽きて余なけん。是れを沙門の法戒を具足し諸の威儀を具すと名づく。応に人天一切の供養を受くべし。若し優婆塞、諸の威儀を犯し不善の事を作さん。不善の事を作すとは、所謂仏法の過悪を説き、四衆の所犯の悪事を論説し、偸盗、婬妷(いんいつ)にして慚愧(ざんき)あることなきなり。若し懺悔して諸罪を滅せんと欲せば、当に勤めて方等経典を読誦し第一義を思うべし。若し王者、大臣、婆羅門、居士、長者、宰官、是の諸人等貪求して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報応に悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし。若し此の業障を滅除せんと欲せば、慚愧を生じて諸罪を改悔すべし。

仏の言わく、
如何なるをか刹利(せつり)、居士(こじ)の懺悔の法と名づくる。刹利、居士の懺悔の法とは、但当に正心にして三宝を謗せず、出家を障えず、梵行人の為に悪留難を作さざるべし。応当に繋念して六念の法を修すべし。亦当に大乗を持つ者を供給し供養し、必ず礼拝すべし。応当に甚深の経法、第一義空を憶念すべし。是の法を思う者、是れを刹利、居士の第一の懺悔を修すと名づく。
第二の懺悔とは、父母に孝養し、師長を恭敬する、是れを第二の懺悔の法を修すと名づく。
第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉(じゃおう)せざる、是れを第三の懺悔を修すと名づく。
第四の懺悔とは、六斎日に於いて諸の境内に勅して、力の及ぶ所の処に不殺を行ぜしめ、此の如き法を修する、是れを第四の懺悔を修すと名づく。
第五の懺悔とは、但当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名づく。
仏、阿難に告げたまわく、
未来世に於いて、若し此の如き懺悔の法を修習することあらん時、当に知るべし、此の人は慚愧(ざんき)の服を著(き)、諸仏に護助せられ、久しからずして当に阿耨多羅三貎三菩提を成ずべし。
是の語を説きたもう時、十千の天子は法眼浄を得、弥勒菩薩等の諸大菩薩及び阿難は、仏の所説を聞きたてまつりて歓喜し奉行しき。

観普賢菩薩行法経



by johsei1129 | 2021-11-04 20:26 | 法華経28品 並開結 | Trackback | Comments(0)


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