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日蓮大聖人『御書』解説

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2021年 10月 20日

妙法蓮華経 方便品第二 (1)  訓読

妙法蓮華経 方便品第二      漢訳版

爾の時に世尊、三昧より安詳(あんじょう)として起ちて、舎利弗に告げたまわく、

諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり。一切の声聞、辟支仏(びゃくしぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり。所以(ゆえん)は何(いか)ん。仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普(あまね)く聞こえたまえり。甚深末曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解し難し。

舎利弗、吾れ成仏してより已来、種種の因縁、種種の譬喩をもって広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して、諸の著(じゃく)を離れしむ。所以は何ん。如来は方便、知見波羅蜜、皆已に具足せり。舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量、無礙、力、無所畏、禅定、解脱、三昧あって、深く無際に入り、一切末曾有の法を成就せり。
舎利弗、如来は能く種種に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔輭(ごんじ・にゅうなん)にして衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有(みぞうう)の法を、仏悉く成就したまえり。
止みなん 舎利弗、須らく復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。
所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈(げ)を説いて言わく、

世雄は量るべからず 諸天及び世人 

一切衆生の類 能く仏を知る者無し 

仏の力無所畏 解脱諸の三昧 

及び仏の諸余の法は 能く測量する者無し 

本無数の仏に従って 具足して諸の道を行じたまえり 

甚深微妙(じんじん・みみょう)の法は 見難く了すべきこと難し 

無量億劫に於いて 此の諸の道を行じ已って 

道場にして果を成ずることを得て 我已に悉く知見す

是の如き大果報 種種の性相の義 

我及び十方の仏 乃し能く是の事を知しめせり 

是の法は示すべからず 言辞の相寂滅(じゃくめつ)せり
諸余の衆生の類 能く得解すること有ること無し 

諸の菩薩衆の信力堅固なる者をば除く

諸仏の弟子衆の 曾て諸仏を供養し 

一切の漏(ろ)已に尽くして 是の最後身に住せる 

是の如き諸人等 其の力堪えざる所なり

仮使(たとい)世間に満てらん 皆舎利弗の如くにして 

思を尽くして共に度量すとも 仏智を測ること能わじ

正使(たとい)十方に満てらん 皆舎利弗の如く 

及び余の諸の弟子 亦十方の刹(くに)に満てらん 

思を尽くして共に度量すとも 亦復知ること能わじ

辟支仏の利智にして 無漏の最後身なる 

亦十方界に満ちて 其の数竹林の如くならん 

斯れ等共に一心に 億無量劫に於いて 

仏の実智を思わんと欲すとも 能く少分をも知ること莫けん

新発意(しんぽっち)の菩薩 無数の仏を供養し 

諸の義趣を了達し 又能善く法を説かんもの 

稲麻竹葦(とうまちくい)の如くにして 十方の刹に充満せん 

一心に妙智を以って 恒河沙劫に於いて 

咸く皆共に思量すとも 仏智を知ること能わじ 

不退の諸の菩薩 其の数恒沙の如くにして 

一心に共に思求すとも 亦復知ること能わじ

又舎利弗に告げたまわく 無漏不思議の 

甚深微妙の法を 我今已に具え得たり 

唯我是の相を知れり 十方の仏も亦然なり

舎利弗当に知るべし 諸仏は語異なること無し 

仏の所説の法に於いて 当に大信力を生ずべし 

世尊は法久しくして後 要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし

諸の声聞衆 及び縁覚乗を求むるものに告ぐ 

我苦縛を脱し 涅槃を逮得(だいとく)せしめたることは 

仏方便力を以って 示すに三乗の教を以ってす 

衆生の処処の著 之を引いて出ずることを得せしめんとなり

爾の時に大衆の中に、諸の声聞、漏尽の阿羅漢、阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等の千二百人、及び声聞、辟支仏の心を発せる比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)有り、各是の念を作さく、
今者世尊、何か故ぞ、慇懃(おんごん)に方便を称歎して、是の言を作したもう。仏の得たまえる所の法は、甚深にして解し難く、言説したもう所有るは、意趣知り難し。一切の声聞、辟支仏の及ぶこと能わざる所なり。
仏、一解脱の義を説きたまいしかば、我等も亦、此の法を得て涅槃に到れり。而るに、今、是の義の所趣を知らず。

爾の時に舎利弗、四衆の心の疑を知り、自らも亦未だ了せずして、仏に白して言さく、

世尊、何の因、何の縁あってか、慇懃に諸仏第一の方便、甚深微妙難解(じんじん・みみょう・なんげ)の法を称歎したもう。我昔より来、未だ曾て、仏に従って是の如き説を聞きたてまつらず。今者四衆、咸く皆疑有り、唯、願わくは世尊、斯の事を敷演(ふえん)したまえ。世尊、何が故ぞ、慇懃に甚深微妙難解の法を称歎したもう。

爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、

慧日大聖尊 久しくあって乃し是の法を説きたもう 

自ら是の如き 力 無畏 三昧 

禅定 解脱等の 不可思議の法を得たりと説きたもう

道場所得の法は 能く問を発す者無し 

我が意測るべきこと難し 亦能く問う者無し 

問うこと無けれども而も自ら説いて 所行の道を称歎したもう 

智慧甚だ微妙にして 諸仏の得たまえる所なり

無漏の諸の羅漢 及び涅槃を求むる者 

今皆疑網に堕しぬ 仏何が故ぞ是れを説きたもう 

其の縁覚を求むる者 比丘比丘尼 

諸の天龍鬼神 及び乾闥婆(けんだっぱ)等 

相視て猶予を懐き 両足尊を瞻仰(せんごう)す 

是の事云何なるべき 願わくは仏為に解説したまえ 

諸の声聞衆に於いて 仏我を第一なりと説きたもう 

我今自ら智に於いて 疑惑して了すること能わず 

是れ究竟(くきょう)の法とや為(せ)ん 是れ所行の道とや為ん 

仏口所生の子 合掌瞻仰して待ちたてまつる 

願わくは微妙の音を出して 時に為に実の如く説きたまえ

諸の天龍神等 其の数恒沙(かず・ごうじゃ)の如し 

仏を求むる諸の菩薩 大数八万有り 

又諸の万億国の 転輪聖王の至れる 

合掌し敬心を以て 具足の道を聞きたてまるらんと欲す

爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
止みなん、止みなん、復説くべからず。若し是の事を説かば、一切世間の諸天及び人、皆当に驚疑すべし。

舎利弗、重ねて仏に白して言さく、
世尊、唯願わくは之を説きたまえ。唯願わくは之れを説きたまえ。所以は何ん。是の会の無数百千万億阿僧祇の衆生は、曾て諸仏を見たてまつり、諸根猛利にして、智慧明了なり。仏の所説を聞きたてまつらば、則ち能く敬信せん。

爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、

法王無上尊 唯説きたまえ 願わくは慮(うらおもい)したもうこと勿れ 是の会の無量の衆は 能く敬信すべき者有り

仏復(また)、

止みなん舎利弗、若し是の事を説かば、一切世間の天、人、阿修羅、皆当に驚疑すべし。増上慢の比丘は将に大坑(だいきょう)に墜つべし。

爾の時に世尊、重ねて偈を説いて言わく、

止みなん止みなん須く説くべからず 我が法は妙にして思い難し 諸の増上慢の者は 聞いて必ず敬信せじ

爾の時に舎利弗、重ねて仏に白して言さく、
世尊、唯願わくは之を説きたまえ。唯願わくは之を説きたまえ。
今、此の会中の我が如き等比百千万億なるは、世世に已に曾て仏に従いたてまつりて化を受けたり。此の如き人等、必ず能く敬信し、長夜安穏にして饒益(にょうやく)する所多からん。
爾の時に舎利弗、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、
無上両足尊 願わくは第一の法を説きたまえ 我は為れ仏の長子なり 

唯分別し説くことを垂れたまえ 是の会の無量の衆は 能く此の法を敬信せん 

仏已に曾て世世に 是の如き等を教化したまえり
皆一心に合掌して 仏語を聴受せんと欲す 我等千二百 及び余の仏を求むる者あり 願わくは此の衆の為の故に 唯分別し説くことを垂れたまえ 是れ等此の法を聞きたてまつらば 則ち大歓喜を生ぜん

爾の時に世尊、舎利弗に告げたまわく、
汝已に慇懃(おんごん)に三たび請じつ。豈説かざることを得んや。汝今諦かに聴き、善く之れを思念せよ。吾当に汝が為に分別し解説すべし。

此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷五千人等有り。即ち座より起って仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失(とが)あり。是を以って住せず。世尊黙然として制止したまわず。爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、

我が今此の衆は復枝葉無く、純(もっぱ)ら貞実(じょうじつ)のみあり。舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くも亦佳(また・よ)し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし。

舎利弗の言さく、
唯然なり。世尊、願楽わくは聞きたてまつらんと欲す。

仏、舎利弗に告げたまわく、
是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し之を説きたもう。優曇鉢華(うどんばっけ)の時に一たび現ずるが如きのみ。舎利弗、汝等当に信ずべし。仏の所説は、言虚妄(みこと・こもう)ならず。舎利弗、諸仏の随宜の説法は意趣解し難し。所以は何ん。我、無数の方便、種種の因縁、譬喩の言辞を以って諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみ有して、乃し能く之を知しめせり。所以は何ん。諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。舎利弗、云何なるかを諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく。

仏、舎利弗に告げたまわく、
諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以って、衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し。舎利弗、一切十方の諸仏の法も亦是の如し。

舎利弗、過去の諸仏も、無量無数の方便、種種の因縁、譬喩の言辞を以って、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の、諸仏に従いたてまつって法を聞かんも、究竟して皆一切種智を得たり。
舎利弗、未来の諸仏の、当に世に出でたもうべきも亦無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以って、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も、皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の諸仏に従いたてまつって法を聞かんも、究竟して皆一切種智を得べし。

舎利弗、現在十方の無量百千万億の仏土の中の諸仏世尊の、衆生を饒益し安楽ならしめたもう所多き、是の諸仏も、亦無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以って、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も、皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の、仏に従いたてまつりて法を聞けるも、究竟して皆一切種智を得。仏の知見を以って衆生に示さんと欲するが故に、仏の知見を以って衆生に悟らしめんと欲するが故に、衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故なり。舎利弗、我も今亦復是の如し。諸の衆生に、種種の欲、深心の所著有ることを知って、其の本性に随って、種種の因縁、譬喩、言辞、方便力を以っての故に、而も為に法を説く。舎利弗、此の如きは、皆一仏乗の一切種智を得せしめんが為の故なり。舎利弗、十方世界の中には、尚二乗無し、何に況や三有らんや。舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁なり。是の如し。舎利弗、劫の濁乱の時は、衆生垢重く、慳貪嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう。舎利弗、若し我が弟子、自ら阿羅漢、辟支仏なりと謂わん者、諸仏如来の、但菩薩を教化したもう事を聞かず知らずんば、此れ仏弟子に非ず、阿羅漢に非ず、辟支仏に非ず。又舎利弗、是の諸の比丘、比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり。是れ最後身なり。究竟の涅槃なりと謂いて、便ち復阿耨多羅三藐(あのくたら・さんみゃく)三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此の輩は、皆是れ増上慢の人なり。所以は何ん。若し比丘の実に阿羅漢を得たる有って、若し此の法を信ぜずといわば、是の処(ことわり)有ること無けん。仏の滅度の後、現前に仏無からんをば除く。所以は何ん。仏の滅度の後に是の如き等の経を受持し、読誦し、其の義を解せん者、是の人得難ければなり。若し余仏に遇わば、此の法の中に於いて、便ち決了することを得ん。舎利弗、汝等当に一心に信解し、仏語を受持すべし。諸仏如来は言虚妄無し。余乗有ること無く、唯一仏乗のみなり。


つづく






by johsei1129 | 2021-10-20 09:28 | 法華経28品 並開結 | Trackback | Comments(0)
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