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日蓮大聖人『御書』解説

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2021年 02月 23日

日寛上人 方便品読誦心地の事

 方便品読誦心地の事 大弍(だいに)日寛謹記


 夫れ聖人垂教の意は修行に在り。修行に二有り、所謂(いわゆる)正助なり。助行と云ふは方便寿量の両品を読誦(どくじゅ)し、正行五字の功徳を助顕するなり。

たとへば灰汁かいじゅうの清水を助くるが如く、又塩酢の米目麺を助くるが如し。此の助行の中に亦ぼうしょう有り。方便読誦を傍と為す、是れ則ち遠く正行を助くるが故なり。寿量読誦を正と為す、是れ則ち近く正行を顕す故なり。傍正有りといえども倶に是れ助行なり。正行と云ふとは、ただ本門の本尊を信じて妙法五字を唱ふるなり。此の正行に亦能所有り。所修は即ち文底もんてい秘沈ひちんの大法自受用身即一念三千の本尊なり。能修は即ち信心しょう南無妙法蓮華経の五字七字なり。まさに知るべし、十方世界微塵みじんの経々、三世の諸仏の諸有の功徳は皆此の本尊に帰せざるはなし。譬へばしゅうの海に入るが如く、百千枝葉の同じく一根に趣くが如し。故に其の功徳甚深無量にして口のぶる所に非ず、心のはかる所に非ず。故に此の本尊を信じて妙法を唱るときは、亦其の功徳無量無辺なり。故に祈りとして叶はざるは無く、罪として滅せざるは無く、福としてきたらざるは無く、理としてあらわれざるは無きなり。天台云く此を以て境とば、何れの法か収らざらん云云。又云く境既に無量無辺なり、智亦是の如し、かん大蓋だいげいだい云云。妙楽云く、正助合行、因つて大益を得等云云。

 問ふ、凡そ当流の意は一代経の中にはただ法華経、法華経の中には但本門寿量品を以て用ひて所依となす専ら迹門しゃくもん無得道の旨を談ず、何ぞ亦方便品を読誦して、以て助行となさんや。

 答ふ、但是れ寿量品が家の方便品なり。宗祖の所謂いわゆる予が読む所の迹門とは是れなり。予が読む所の迹門亦両意を含む。一には所破の為め、二にはしゃくもんの為なり。故に興師云く一に所破の為とは方便称読の元意は只是れちょうの一段なり。二に借文の為とは、迹の文証を借りて、本の実相を顕す云云。

 今其の相を示さば、文々句々(おのずか)ら両辺有り、所謂文義なり、文は是れ能詮、義は是れ所詮なり。故に読誦において亦両意を成す、是れ則ち所詮の辺に約して所破と為すなり、能詮の辺に約して借文と為すなり。所破の為とはすなわち迹門の義を破するなり、借文の為とは迹門の文を借りて本門の義を顕す。すべからく唯仏与仏乃能究尽の文の如き此の一文を読むに即ち両意を含む、一に所破の為とは、立正観抄廿八に云く、経に唯仏ゆいぶつ与仏よぶつ乃能ないのう究尽くじんとは、迹門の仏当分にきょうする辺を説くなり等云云。二に借文の為とは、十章抄卅に云く、一念三千の出処はりゃっかいさんの十如実相なれども義分は本門に限る等云云。一文既に然り余皆准説じゅんせつせよ、両意有りと雖も是れ前後に非ず、是れ格別に非ず、只是れ一法の両義にして、明闇の去来こらい同時なるが如し。あに甚深の妙旨に非ずや。

 問ふ、寿量品が家の方便品とは其の相如何いかん

 答ふ、通じて迹門に於て自ら両意有り。一には顕本已前の迹門、是れを体外たいげの迹門と名づく即ち是れ本無今ほんむこんの法なり譬へば不識天月但観池月の如し。二には顕本已後の迹門、是を体内の迹門と名づく、即ち是れ本有ほんぬ常住の法なり。例せば従本垂迹如月現水の如し。此の二義諸文に散在す云云。今は是れ体内の迹門を読誦どくじゅする故に寿量品が家の方便品と云ふなり。

問ふ、(けだ)し所破借文と云ふ、応に体内の迹門に約すべし。若し体内の迹門は即ち是れ本門なり。豈所破のしゃくもんと云ふを得べけんや。

答ふ、所破、借文の両義並びに顕本已後に約するなり。例せば十章抄に止観一部は法花経の開会かいえの上に建立するなり、ぜん外典を引くと雖も、爾前外典の意には非ず、文をば借れども義をば削りすつるなりと云ふが如し云云。既に開会の上に於ては文をば借れども義をば削り捨ると云云。今亦例してかなり。豈分明ふんみょうなるに非ずや。

問ふ、けだし体内の迹門は即ち本有常住の法なり、何ぞ其の義を破せんや。

答ふ、()ほ是れ体内の迹門なり、体内の本門には及ばず。例せば十章抄仮使たとひ開会を悟れる念仏なりとも、ほ体内の権なり、体内の実には及ばずと云ふが如し。故に十法界抄卅四に云く、本門顕れおわれば、迹門の仏因則ち本門の仏果なる故に、天月水月とも本有ほんぬの法と成り、本迹倶に三世常住と顕るるなり云云。当に知るべし、三世常住の水月は、三世常住の天月に及ばざるなり。故に義をばけずり捨るなり。

問ふ、何ぞ顕本けんぽんの後に其の文を借るや。

答ふ、是れ借るべきを借る謂れなり。故に玄九・六十五に云く、諸迹悉く本る、かえつて迹を借りて本を顕す等云云。之を思へ。

問ふ、在々処々に破する所の迹門と所破の為に読む所の迹門と、正に其の不同如何いかん

答ふ、在々処々に破する所の迹門は、是れ体外(たいげ)の迹門にして天台過時の迹門なり、けだし所破の為に読む所の迹門は是れ体内の迹門にして予が読む所の迹門なり。

問ふ、若し所破の為ならば則ち何ぞぜんを読まざるや。

答ふ、此の難甚だ非なり、是れ三時の弘経に(くら)く四重の興廃を(わきま)へざる故なり。いわく天台は像法迹門の導師なり。故にただ爾前を破して専ら迹門を弘む。わがは末法本門の導師なり。故に迹門を破して専ら本門を弘む。是れ則ち像末ちゃくりゅうなり。いわんや爾前に於て、更に一念三千の文なし、何ぞ之を借用しゃくようすべけんや。未だ必ず自余の引用と同ぜざるなり云云。

問ふ、御法則抄に云く、在々処々に迹門を捨つと書きて候事は予が読む所の迹に非ずとは、此の寿量品は聖人の迹門なり。文に迹門在り、義に本門在り等云云。し此意にれば、正しく寿量品を指して、予が読む所の迹門と名づけ何ぞ方便品と云ふや。

答ふ、既に本尊抄の未得道教等の文章について、迹門を読まずと云云。故に直ちに寿量品を指すに非ず。故に知んぬ御法則の意にいわく、既に寿量品が家の迹門なり。故に迹門を以て寿量品と名づくるなり。例せば産湯に、寿量品に云くこん三界さんがい等と云ふが如し、故に迹門を以て寿量品と名づく、此の寿量品は聖人の迹門等と云ふなり。故に次に文在迹門義在本門と云ふすなわち此の意なり。常に迹中の説なるを以て寿量品を迹と名づくるに同じからざるなり。

問ふ、(にっ)(しん)の論義に当山(ちん)師の記を引いて云く、日代云く迹門は()(しゃく)の分には捨つべからず云云。日道師云く施開廃(せかいはい)(とも)に迹門は捨つべし云云已上。又日尊師に(むくい)る書に云く、或ひは天目等に同じ迹門を読むべからず。(ある)ひは鎌倉方に同じ迹門に得道有り云云。日道一人正義を立て候畧抄天目に同ずとは讃州(さんしゅう)の日仙なり。鎌倉に同ずとは、即ち日代師なり。此の義如何云云。

問ふ、日尊実録に云く、迹門は衆生法妙、本門は仏法妙、観心は心法妙なり。方便品には心法(しんぽう)(しょ)()の衆生法妙を説き、寿量品には心法所具の仏法妙を説く、題目は心法の直体なり。此の如き深意(じんい)を知らず、所破の為に之を読む云云。実録は是れ日大の所迹なり。此の義如何云云。

今更に未解者の為に、要を取りて之を云ふ。且らく唯仏与仏等の一文の如き(ひろ)く之を論ずる(とき)は即ち多意を為す。初めに所破の辺に自ら二意を含む。一には体外の迹門の意は今日()(じょう)の仏の所証の法なり。在々所々多く此の意に拠る。二には体内の迹門の意は従本(じゅうほん)垂迹(すいじゃく)の仏の所証なり、読誦之意正に此に在り。

次に借文の辺に亦二意を含む。一には近く久遠(くおん)本果の所証の法を顕はすなり、通得引用は多く此の意に拠る。二には遠く久遠名字の所証の法を顕はすなり、読誦の意正しく(ここ)に在り云云。

当に知るべし、()文底(もんてい)の眼を開く(とき)は、此の文は即ち是の久遠名字の本仏の唯仏与仏、乃能究尽なり。(なんじ)復当に知るべし、久遠名字(みょうじ)の本仏とは即ち是れ今日の蓮祖聖人の御事なり。故に血脈抄唯我ゆいがと云ふなり。一文既に然なり。余皆准説せよ。し此の意を得ば、法華一部の方寸を知るべく、御義口伝掌中しょうちゅうこのみの如し云云。秘すべし。秘すべし云云。

問ふ、当門流に於て或ひは十如(じゅうにょ)を読み、或ひは広開長行に至る、其の(いわ)れ如何。

答ふ、既に是れ一念三千の出処なり。故に(ただ)十如を読めば其の義則ち足れり。然りと雖も、(りゃっ)(かい)は正しき開顕に非ず、故に一念三千(なお)未だ分明ならず、故に()ほ広開に至るなり。

記三下五十六に云く、今諸仏及び釈迦を歎じて下の五仏の弄引(ろういん)と為す文。又第七・六十・九ヲに、略開は但是れ動執生(どうしゅうしょう)()にして正しい開顕に非ず文。宗印北峯(ほっぽう)に云く、三千は是れ不思議の妙境なり。若し開権顕実に非ずんば、豈能く互具互(ごぐご)(ゆう)せんや。

開目抄に云く、法華経の方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千の本懐をのぶれども、ほととぎすの初音を耳に聞くが如く、月の山端に出たれども薄雲のおおふ如くかすかなり等云云。

故に知んぬ、()し広開に至らざれば其の義(なお)未だ分明ならざるなり。大覚抄十八に云く、常の御所作しょさには、方便品の長行と、寿量品の長行と習ひ読み給ひ候へ云云。

是れ広開の長行を指す。是れ則ち広開の()の長篇に望み、通じて其の前を以て皆長行と名づくるなり、意に云く、十如自我偈(じがげ)は前に習ひ読み給ひぬ。方便品長行をも、寿量品長行をも習ひ読み給ひ候へ等云云。

方便品読誦の心地、()くの如し、秘すべし、秘すべし云云。


維時正徳六丙申二月廿二

日永上人御一周忌報恩謝徳の為に之を講じ畢んぬ

併せて大衆及び所化等の懇望(こんもう)に由るが故也

     上野学頭 大弍(だいに)阿闍梨日寛 花押


御正本美濃十行・六丁に依り之を謹写し了んぬ

大正七年五月十四日 雪 仙日亨 花



     方便品長行




by johsei1129 | 2021-02-23 22:15 | 富士宗学要集 | Trackback | Comments(0)
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