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日蓮大聖人『御書』解説

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2020年 09月 01日

末法の法本尊をあきらかにした書【観心本尊抄】 その二

[観心本尊抄 本文] その二
 問うて曰く、六道に於て分明(ふんみょう)ならずと雖も粗之を聞くに、之を備うるに似たり。四聖は全く見えざるは如何。
 答えて曰く、前には人界の六道之を疑う。然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり。四聖も又爾る可きか。試みに道理を添加して万か一之を宣べん。所以に世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ。
 法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」
 涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云。
 末代の凡夫・出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり。
 問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今時・之を信ぜずば必ず一闡提と成らん。願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ、阿鼻の苦を救護(くご)したまえ。
 答えて曰く、汝・既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下四依の菩薩・並びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護(くご)せんや。然りと雖も試みに之を云わん。仏に値いたてまつつて覚らざる者、阿難等の辺にして得道する者之れ有ればなり。
 其れ機に二有り。一には仏を見たてまつり、法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上、仏教已前は漢土の道士・月支の外道・儒教、四韋陀(いだ)等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り。又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て、大通久遠の下種を顕示する者多々なり。例せば独覚の飛花落葉の如し。教外の得道・是なり。過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は、設い法華経に値い奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ・或は華厳・大日経等に同じ・或は之を下す。此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり。
 此等は且らく之を置く。十界互具之を立つるは、石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値うて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火・火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で、竜水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用いざらん。尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に於て偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。此等の現証を以て之を信ず可きなり。
  問うて曰く、教主釈尊は 此れより堅固に之を秘す 三惑已断の仏なり。又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。行(みゆき)の時は梵天・左に在り、帝釈右に侍(は)べり、四衆八部後(しりえ)に聳(したが)い・金剛前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。是くの如き仏陀、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや。
 又迹門爾前の意を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求れば、或は能施太子・或は儒童菩薩・或は尸毘王(しびおう)・或は薩埵(さった)王子・或は三祇・百劫或は動喩塵劫・或は無量阿僧祇劫・或は初発心時・或は三千塵点等の間、七万・五千・六千・七千等の仏を供養し・劫を積み・行満じて今の教主釈尊と成り給う。
 是くの如き因位の諸行は、皆我等が己身所具の菩薩界の功徳か。果位を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏、四十余年の間・四教の色身を示現し、爾前・迹門・涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う。所謂華蔵の時、十方台上の盧舎那(るしゃな)・阿含経の三十四心・断結成道の仏・方等般若の千仏等・大日・金剛頂の千二百余尊・並びに迹門宝塔品の四土色身・涅槃経の或は丈六と見る、或は小身大身と現じ、或は盧舎那と見る、或は身・虚空に同じと見る。四種の身乃至八十御入滅、舎利を留めて正像末を利益し給う。
 本門を以て之れを疑わば、教主釈尊は五百塵点已前の仏なり、因位も又是くの如し。其れより已来(このかた)十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化し給う。本門の所化を以て迹門の所化に比校すれば、一渧(いったい)と大海と・一塵(いちじん)と大山となり。本門の一菩薩を迹門十方世界の文殊観音等に対向すれば、猴猿(えんこう)を以て帝釈に比するに尚及ばず。其の外・十方世界の断惑証果の二乗・並びに梵天・帝釈・日月・四天・四輪王・乃至無間大城の大火炎等、此等は皆我が一念の十界か、己身の三千か。仏説為りと雖も之を信ず可からず。
 此れを以て之を思うに、爾前の諸経は実事なり・実語なり。
 華厳経に云く「究竟(くきょう)して虚妄を離れ、染(ぜん)無きこと虚空(こくう)の如し」と。
 仁王経に云く「源を窮め・性を尽して妙智存せり」
 金剛般若経に云く「清浄の善のみ有り」
 馬鳴菩薩の起信論に云く「如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り」
 天親菩薩の唯識論に云く「謂く余の有漏と劣の無漏と種は金剛喩定(ゆじょう)が現在前する時、極円明純浄の本識を引く。彼の依(え)に非ざるが故に皆永く棄捨す」等云云。
 爾前の経経と法華経と之を校量(きょうりょう)するに、彼の経経は無数なり・時説既に長し。一仏二言・彼に付く可し。
 馬鳴菩薩は付法蔵第十一にして仏記に之れ有り。天親は千部の論師・四依の大士なり。天台大師は辺鄙(へんぴ)の小僧にして一論をも宣べず、誰か之を信ぜん。其の上、多を捨て小に付くとも法華経の文・分明ならば少し恃怙(じこ)有らんも、法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明(ふんみょう)なる証文之れ有りや。随つて経文を開拓するに「諸法の中の悪を断じたまへり」等云云。天親菩薩の法華論・堅慧(けんね)菩薩の宝性論に十界互具之れ無く、漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し。但天台一人の僻見(びゃっけん)なり、伝教一人の謬伝(みょうでん)なり。故に清涼国師の云く「天台の謬りなり」慧苑法師の云く「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為し其の名謬濫(みょうらん)するを以て」等云云。了洪が云く「天台独り未だ華厳の意を尽くさず」等云云。得一が云く「咄(つたな)いかな智公、汝は是れ誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て覆面舌(ふめんぜつ)の所説の教時を謗ず」等云云。弘法大師の云く「震旦の人師等、諍つて醍醐を盗んで各自宗に名く」等云云。
 夫れ一念三千の法門は一代の権実に名目を削り、四依の諸論師・其の義を載せず。漢土日域の人師も之を用いず、如何が之を信ぜん。
 答えて曰く、此の難・最も甚し・最も甚し。但し諸経と法華との相違は経文より事起つて分明なり。未顕と已顕と、証明と舌相と、二乗の成不と、始成(しじょう)と久成(くじょう)と等之を顕わす。諸論師の事、天台大師云く「天親・竜樹、内鑒冷然(ないがんれいねん)たり。外には時の宜(よろし)きに適い、各権に拠る所あり。而るに人師・偏に解し、学者・苟(いやしく)も執し、遂に矢石を興し、各一辺を保ちて大に聖道に乖(そむ)けり」等云云。
 章安大師云く「天竺の大論尚其の類に非ず。真旦の人師何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむるのみ」等云云。
 天親・竜樹・馬鳴・堅慧(けんね)等は内鑒冷然なり。然りと雖も時未だ至らざるが故に之を宣べざるか。人師に於ては天台已前は或は珠を含み、或は一向に之を知らず。已後の人師或は初めに之を破して後に帰伏する人有り。或は一向用いざる者も之れ有り。但し「諸法の中の悪を断じたまへり」の経文を会(え)す可きなり。彼は法華経に爾前の経文を載するなり。
 往いて之を見るに経文分明に十界互具之を説く。所謂「欲令衆生・開仏知見」等云云。天台此の経文を承けて云く「若し衆生に仏の知見無んば何ぞ開を論ずる所あらん。当に知るべし仏の知見衆生に蘊在(うんざい)することを」云云。
 章安大師の云く「衆生に若し仏の知見無くんば・何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵無くんば・何ぞ示す所あらんや」等云云。
 但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。此の事を仏・遮会(しゃえ)して云く「已今当説・最為難信難解」と。次下(つぎしも)の六難九易是なり。
 天台大師云く「二門悉く昔と反すれば信じ難く、解し難し。鉾(ほこ)に当るの難事なり」。
 章安大師の云く「仏・此れを将(も)つて大事と為す、何ぞ解し易きことを得可けんや」。
 伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり。随自意の故に」等云云。
 夫れ仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴(きょうりゃく)して但三人のみ有つて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支の釈尊・真旦の智者大師・日域の伝教、此の三人は内典の聖人なり。
 問うて曰く、竜樹・天親等は如何。
 答えて曰く、此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり。或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云わず、或は機有つて時無きか、或は機と時と共に之れ無きか。天台伝教已後は之を知る者多多なり。二聖の智を用ゆるが故なり。所謂三論の嘉祥(かじょう)・南三北七の百余人・華厳宗の法蔵・清涼等・法相宗の玄奘三蔵・慈恩大師等・真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等・律宗の道宣等、初には反逆を存し・後には一向に帰伏せしなり。
 但し初めの大難を遮(しゃ)せば、無量義経に云く「譬えば国王と夫人と新たに王子を生ぜん。若は一日・若は二日・若は七日に至り、若は一月・若は二月・若は七月に至り、若は一歳・若は二歳・若は七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も・已に臣民に宗敬(そうきょう)せられ、諸の大王の子・以て伴侶と為らん。王及び夫人の愛心偏に重くして常に与共(とも)に語らん。所以は何(いか)ん。稚小なるを以ての故にと云うが如し。
 善男子・是の持経者も亦復是くの如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩、是の経を聞くことを得て若しは一句・若しは一偈・若しは一転・若しは二転・若しは十・若しは百・若しは千・若しは万・若しは億万恒河沙・無量無数転せば復真理の極を体すること能わずと雖も・乃至已に一切の四衆八部に宗仰(しゅうごう)せられ、諸の大菩薩を以て眷属と為し・乃至常に諸仏に護念せられ、慈愛偏に覆われん。新学なるを以ての故なり」等云云。
 普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵、十方三世の諸仏の眼目なり。乃至三世の諸の如来を出生する種なり。乃至汝・大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云。
 又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏是に因つて五眼を具することを得。仏の三種の身は方等従り生ず。是れ大法印にして涅槃海に印す。此くの如き海中、能く三種の仏の清浄身を生ず。此の三種の身は人天の福田なり」等云云。
 夫れ以(おもんみ)れば・釈迦如来の一代・顕密・大小の二教、華厳・真言等の諸宗の依経往いて之を勘うるに、或は十方台葉・毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・大集雲集の諸仏如来・般若染浄の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊・但其の近因近果を演説して其の遠(おん)の因果を顕さず。速疾頓成(そくしつとんじょう)之を説けども三五の遠化(おんけ)を亡失し、化導の始終・跡を削りて見えず。華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども、再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず、本有(ほんぬ)の三因・之れ無し。何を以てか仏の種子を定めん。
 而るに新訳の訳者等、漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加し・或は天竺より受持するの由・之を称す。天台の学者等、或は自宗に同ずるを悦び・或は遠きを貴んで近きを蔑(さげす)みし、或は旧を捨てて新を取り、魔心・愚心出来す。然りと雖も詮ずる所は、一念三千の仏種に非ずんば有情(うじょう)の成仏・木画(もくえ)二像の本尊は有名(うみょう)無実なり。
 問うて曰く、上の大難・未だ其の会通(えつう)を聞かず如何。
 答えて曰く、無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も・六波羅蜜自然(じねん)に在前す」等云云。
 法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云。
 涅槃経に云く「薩(さ)とは具足に名く」等云云。
 竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云。
 無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙とは訳して六と云う。胡法には六を以て具足の義と為すなり」
 吉蔵の疏(しょ)に云く「沙とは翻じて具足と為す」
 天台大師云く「薩とは梵語なり。此には妙と翻ず」等云云。
 私(日蓮)に会通を加えば本文を黷(けがす)が如し。爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う。
 四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云。我等が己心の声聞界なり。「我が如く等しくして異なる事無し。我が昔の所願の如き・今は已に満足しぬ、一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」。
 妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。
 宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は、則ち為(こ)れ我及び多宝を供養するなり。乃至亦復諸の来たり給える化仏の諸の世界を荘厳し、光飾し給う者を供養するなり」等云云。
 釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり。其の跡を継紹して其の功徳を受得す。「須臾(しゅゆ)も之を聞く。即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり。
 寿量品に云く「然るに我(われ)実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云。
 我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。
 経に云く「我本(もと)菩薩の道を行じて・成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」等云云。
 我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。例せば大公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属。武内の大臣(おとど)は神功皇后の棟梁・仁徳(にんとく)王子の臣下なるが如し。上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり。
 妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。
 
 夫れ始め寂滅道場・華蔵世界より沙羅林に終るまで五十余年の間、華蔵・密厳・三変・四見等の三土四土は皆成劫の上の無常の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養・浄瑠璃・密厳等なり。能変の教主、涅槃に入りぬれば、所変の諸仏随つて滅尽す。土も又以て是くの如し。
 今本時の娑婆世界は三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり。迹門十四品には未だ之を説かず。法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。
 此の本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字に於ては猶・文殊薬王等にも之を付属し給わず。何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う。
 其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔・空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士・上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿(うんかく・げっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処し給う。迹仏・迹土を表する故なり。
 是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し。八年の間にも但八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士(きょうじ)と為し、権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画(えが)けども、未だ寿量の仏・有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
 問う、正像二千余年の間は四依(しえ)の菩薩並びに人師等、余仏・小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣、倶に未だ之を崇重せざる由之を申す。此の事粗之を聞くと雖も・前代未聞の故に耳目を驚動し、心意を迷惑す。請う重ねて之を説け、委細に之を聞かん。
 答えて曰く、法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては涅槃経等の一代の諸経、惣じて之を括(くく)るに但一経なり。始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり。無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗なり。涅槃経等は流通分なり。
 正宗十巻の中に於て亦序正・流通有り。無量義経並に序品は序分なり。方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまで十五品半は正宗分なり。分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。
 又法華経等の十巻に於ても二経有り。各(おのおの)序正・流通を具するなり。無量義経と序品は序分なり。方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり。法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり。其の教主を論ずれば始成正覚の仏・本無今有(ほんむこんぬ)の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意・難信難解の正法なり。過去の結縁を尋れば大通十六の時、仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ。此れは仏の本意に非ず・但毒発(どくほつ)等の一分なり。二乗凡夫等は前四味を縁と為し、漸漸に法華に来至して種子を顕わし、開顕を遂ぐるの機・是なり。又在世に於て始めて八品を聞く人天等、或は一句一偈等を聞きて下種とし・或は熟し・或は脱し、或は普賢・涅槃等に至り、或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る。例せば在世の前四味の者の如し。





by johsei1129 | 2020-09-01 13:22 | 観心本尊抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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