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日蓮大聖人『御書』解説

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2020年 02月 23日

【一代五時継図】五

一、天台御臨終の事

 止観の一に云く「安禅として化す。位五品に居す」文。

 弘決の一に云く「安禅として化す・位五品に居す等とは此れ臨終の行位を出すなり。禅定を出でずして端坐して滅を取る、故に安禅として化すと云う」文。又云く「法華と観無量寿の二部の経題を唱えしむ文。又云く香湯を索(もと)めて口を漱(すす)ぎ竟(おわ)つて十如・四不生・十法界・四教・三観・四悉・四諦・十二縁を説くに、一一の法門・一切の法を摂す。吾・今最後に観を策(はげ)まし・玄を談ず。最後善寂なり跏趺(けっか)して三宝の名を唱えて三昧に入るが如し。即ち其の年十一月二十四日未(ひつじ)の時、端坐して滅に入りたもう」文。

 又云く「大師・生存に常に兜率(とそつ)に生ぜん事を願う。臨終に乃ち観音来迎(らいごう)すと云う。当に知るべし、物に軌(のっ)とり・機に随い・縁に順じて・化を設く。一准なる可からざることを」文。又云く「汝善根を種うるに嬾(ものう)くして他の功徳を問う。盲(めくら)の乳を問い、蹶(つまづ)きたる者の路を訪(とぶら)うが如し。実を告げて何の益かあらん」文。

 選択集の上に云く「願くは西方の行者、各其の意楽(いぎょう)に随い・或は法華を読誦して以て往生の業と為し、或は華厳を読誦し以て往生の業と為し、或は遮那(しゃな)教主及以(およ)び諸尊の法等を受持し、読誦して往生の業と為し、或は般若・方等及以び涅槃経等を解説し・書写して以て往生の業と為す。是れ則ち浄土宗観無量寿経の意なり」文。

 又云く「問うて曰く、爾前経の中・何ぞ法華を摂するや。答えて曰く、今言う所の摂とは権実偏円等の義を論ずるに非ず。読誦大乗の言は普く前後の大乗諸経に通ず」文。

 観無量寿経に云く「爾の時に王舎大城に一(ひとり)の太子有(いま)す、阿闍世と名づく。調達・悪友の教に随順して父の王の頻婆沙羅(びんばしゃら)を収執して幽閉して七重の室内に置く」文。

 法華経の序品に云く「韋提希(いだいけ)の子、阿闍世王・若干百千の眷属と倶なり」文。

 恵心の往生要集の上に云く「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざらん。但顕密の教法其の文一に非ず、事理の業因其の行・惟(こ)れ多し。利智精進の人は未だ難しと為さず、予が如き頑魯(がんろ)の者・豈敢へてせんや。是の故に念仏の一門に依つて聊(いささ)か経論の要文を集め・之を披(ひ)らき・之を修するに覚り易く・行じ易し」文。

 恵心・往生要集を破し二十三年已後に一乗要決を作る、一乗要決の上に云く「諸乗の権実は古来の諍(あらそい)なり。倶に経論に拠つて互に是非を執す。余・寛弘丙午(かんこう・ひのえうま)の歳、冬十月病中に歎じて曰く、仏法に遇うと雖も未だ仏意を了せず。若し終に手を空(むなし)うせば後悔何ぞ追ばん。爰に経論の文義賢哲の章疏・或は人をして尋ねしめ・或は自ら思択す。全く自宗他宗の偏党を捨てて・専ら権智実智の深奥を探るに、遂に一乗は真実の理・五乗は方便の説なることを得る者なり。既に今生の蒙を開く。何ぞ夕死の恨みを遺さん」文。

一、念仏は末代に流布す可き事

 雙観経の下に云く「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍して特に此の経を留めて止住すること百歳ならん。其れ衆生有つて斯の経に値う者は・意の所願に随つて皆得度す可し」文。

 往生礼讃に云く「万年に三宝滅して此の経住すること百年。爾の時に聞いて一念もせば皆当に往生を得べし」文。

 慈恩大師の西方要決に云く「末法万年に余経悉く滅して弥陀の一経のみ」と文。

 方便品に云く「深く虚妄の法に著して堅く受けて捨つ可からず。是くの如き人・度し難し」と文。

 堅恵菩薩の宝性論に云く「過去謗法の障(さわ)り、不了義に執著す」と文。

 方便品に云く「若し余仏に遇わば此の法中に於て便(すなわ)ち決了することを得ん」と文。

 玄の七に云く「南岳師の云く初依を余仏と名く。無明未だ破せず、之を名けて余と為す。能く如来秘密の蔵を知つて深く円理を覚す、之を名けて仏と為す」文。

 涅槃経疏十一に云く「人・正法を得るが故に聖人と云う」と文。

 像法決疑経に云く「常施菩薩・初成道より乃至涅槃其の中間に於て如来の一句の法を説くを見ず。然るに諸の衆生は出没説法度人有りと見る」と文。

 二十五三昧・二十五有の略頌(りゃくじゅ)に曰く「四州・四悪趣・六欲並びに梵世・四禅・四無色・無想・五那含」文。

一、漢土南北の十師、天台大師に帰伏する事

 国清百録の第四に云く「千年と復五百と復実に今日に在り。南岳の叡聖・天台の明哲、昔は三業を住持し今は二尊に紹継す。豈止(た)だ甘露を振旦(しんだん)に灑(そそ)ぐのみならん、亦当に法鼓(ほっく)を天竺に振うべし。生知妙悟、魏晋より以来(このかた)典籍風謡実に連類無し云云。乃至禅衆一百余僧と共に智者大師を請し奉る。[天台大師、俗性は陳氏、字は徳安、諱(いみな)は智顗(ちぎ)・頴川の人なり、後則ち南荊州華容県に遷居す。]

一、伝教大師の一期略記に云く[桓武天皇の御宇、延暦廿一年壬午正月十九日伝教大師最澄、高尾寺に於て六宗と諍(あらそ)い責め破り畢んぬ。仍つて勅宣を下され帰伏の状を召さる、六宗の碩学共に帰伏の状を奉りて云く]

 「漢明の年、教・震旦に被り礒島(しきしま)の代に訓(くん)本朝に及ぼす。聖徳の皇子は霊山の聖衆にして衡岳(こうがく)の後身なり。経を西隣に請い、道を東域に弘む。智者禅師は亦共に霊山に侍し、迹を台岳に降し、同く法華三昧を悟り、以て諸仏の妙旨を演ぶる者なり。竊(ひそか)に天台の玄疏を見れば釈迦一代の教を惣括して悉く其の趣を顕わし、処として通ぜざること無し。独り諸宗に逾(こ)え、殊に一道を示す。其の中の所説の甚深の妙理、七箇の大寺・六宗の学匠、昔未だ聞かざる所・曾て未だ見ざる所なり。三論・法相の久年の諍い渙焉(かんえん)として氷の如く釈(と)け、昭然として既に明らかなり、雲霧を披いて三光を見るが猶(ごと)し。

 聖徳の弘化(ぐけ)より以降(このかた)、今に二百余年の間・講ずる所の経論其の数惟(こ)れ多し、彼此(ひし)理を争つて其の疑ひ未だ解けず、此の最妙の円宗猶未だ闡揚(せんよう)せず。蓋(けだ)し以(おもんみ)れば此の間の群生・未だ円味に応ぜざるか。

伏して惟(おもんみ)れば聖朝久しく如来の付嘱を受け、深く純円の機を結ぶ。一妙の義理始めて乃ち興顕す。六宗の学衆初めて至極を悟る。謂ひつべし、此の界の含霊(がんれい)今よりして後、悉く妙円の船に載つて早く彼岸に済(わた)ることを得んと。如来の成道四十余年の後、乃ち法華を説いて悉く三乗の侶をして共に一乗の車に駕(の)せしむるが猶(ごと)し。善議等・慶躍(けいやく)の至りに堪えず。敢へて表を奉つて陳謝以て聞(ぶん)す」云云。

 秀句の下に云く「当に知るべし已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なることを、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝る。但し無量義を随他意と云うは未合の一辺を指す。余部の随他意に同じからざるなり」文。

 文句の八に云く「已とは大品以上の漸頓の諸説なり。今とは同一の座席・謂く無量義経なり、当とは謂く涅槃なり。大品等の漸頓は皆方便を帯すれば信を取ること易しと為す。

今無量義は一より無量を生ずれども・無量未だ一に還らず、是亦信じ易し。今の法華は、法を論ずれば一切の差別・融通して一法に帰す、人を論ずれば則ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒(ほこ)に当る難事をば法華已に説く。涅槃は後に在れば則ち信ず可きこと易し。

秘要の蔵とは隠して説かざるを秘と為し、一切を惣括するを要と為す。真如実相の包蘊(ほうおん)せるを蔵と為す。

不可分布とは法・妙にして信じ難し。深智には授く可し、無智は罪を益す故に妄りに説く可らず。

昔より已来(このかた)未だ曾て顕説せずとは、三蔵の中に於ては二乗の作仏を説かず、亦師弟の本迹を明かさず。方等般若には実相の蔵を説くと雖も亦未だ五乗の作仏を説かず、亦未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経・皆未だ融会せず、故に名けて秘と為す。此の経には具(つぶさ)に昔秘する所の法を説く、即ち是れ秘密蔵を開するに亦即ち是れ秘密蔵なり。此くの如きの秘蔵は未だ曾て顕説せず。

如来在世・猶多怨嫉とは四十余年には即ち説くことを得ず。今説かんと欲すと雖も而も五千・尋いで即ち座を退く。仏世すら尚爾り、何に況んや未来をや。理・化し難きに在り」。

 楞伽(りょうが)経に云く「我・得道の夜より涅槃の夜に至るまで一字をも説かず」文。

 止観の五に云く「是の故に二夜一字を説かず」と文。又云く「仏二法に因つて此くの如きの説を作したもう。縁自法と及び本住の法を謂う。自法とは彼の如来の得る所、我も亦之を得」文。又云く「文字を離るるとは仮名を離るるなり」文。

 法華に云く「但仮の名字を以て衆生を引導したもう」文。

 玄義の五に云く「恵能く惑を破し・理を顕す。理は惑を破すこと能わず。理若し惑を破せば一切衆生悉く理性を具す、何が故ぞ破せざる。若し此の恵を得れば則ち能く惑を破す。故に智を用(も)つて乗体と為す」文。

 弘の五に云く「何の密語に依つて此くの如き説を作したもう。仏の言く、二の密語に依る、謂く自証法・及び本住法なり。然るに一代の施化・豈権智被物の教無からんや。但此の二に約して未だ曾て説有らず。故に不説と云うのみ」文。

 籤の一に云く「三に廃迹(はいしゃく)とは後の如く前の如し。文を引く中・初めに諸仏の下同を引く・為度の下正しく廃迹を明す。廃し已れば迹無し、故に皆実と云う、実は只是れ本・権は只是れ迹、若し同異を弁ぜば広く第七の巻の如し」文。

 籤の一に云く「捨は只だ是れ廃。故に知んぬ、開と廃は名異躰同なることを」文。

 止の六に云く「和光同塵は結縁の始め、八相成道は以て其の終りを論ず」と文。

 弘の六に云く「和光の下・身を現ずるを釈するなり。四住の塵に同じ。処処に縁を結び、浄土の因を作し、利物の始めと為す。衆生・機熟して八相成道す。身を見・法を聞き、終に実益に至る」文。

 天照大神の託宣に云く「往昔(むかし)勤修して仏道を成じ、求願円満遍照尊・閻浮に在つては王位を護り、衆生を度せんが為に天照神」と。





by johsei1129 | 2020-02-23 22:26 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)


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