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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 04月 29日

末法の本仏の立場で法華経二十八品を後継者、日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(108)

【普賢品六箇の大事】

第六 此人不久当詣道場の事 (その二)

尋ねて云く、今の法華経に於て、序品には首(はじ)めに如の字を置き(注)終りの普賢品には去の字を置く(注)羅什三蔵(注)の心地何なる表事の法門ぞや、
答て云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり、始の如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。

 其の故は実相は理なり、久遠は事なり。理は空の義なり、空は如の義なり、之に依て如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名く即ち空の義なり」と

久遠は事なり、其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。

去は久遠に当るなり、去は開の義、如は合の義なり、開は分別の心なり、合は無分別の意なり。

此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。
序品の始に如の字を顕したるは生仏不二(注)の義なり、迹門は不二の分なり、不変真如なる故なり。

此の如是我聞の如をば不変真如の如と習うなり、空仮中の三諦には如は空、是は中、我聞は仮諦、迹門は空を面と為す故に不二の上の而二なり。
然る間、而二の義を顕す時、同聞衆を別に列ぬるなり。




序品には首めに如の字を置き
鳩摩羅什により漢訳された妙法蓮華経は以下の様に、序品第一から始まる。その最初の文は「是我聞」の偈となる。
妙法蓮華経  姚秦三蔵法師 鳩摩羅什奉 詔訳
妙法蓮華経 序品 第一
是 我聞 一時 仏住 王舎城 耆闍崛山中(注) 与大比丘衆万二千人倶

終りの普賢品には去の字を置く
妙法蓮華経の最後の品である普賢品の最後は下記の様に「」の次で終えている。

一切大会 皆大歓喜 受持仏語 作礼而


三蔵法師(さんぞうほうし)
訳僧を意味する。

耆闍崛山中
霊鷲山のこと。

羅什三蔵
妙法蓮華経の役僧(344年 - 413年)
鳩摩羅什は生前、「私が訳した経典に誤りがなければ荼毘に付しても舌は焼けない」と遺言していたが、火葬したところ、舌だけが焼け残ったと伝えられている。
法華経の完全な訳品は「正法華経、妙法蓮華経、添品妙法蓮華経」の三本存在するが、唯一、妙法蓮華経だけが普及し、特に日本においては僧だけでなく一般の信徒により日常的に読誦されている。世界的にも事実上法華経といえば妙法蓮華経を指し示す。
日蓮大聖人は「諫暁八幡抄」で鳩摩羅什を次の様に称えられておられます。
然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可からず」と。

生仏不二
生仏一如とも。
衆生と仏の法身とは平等不二で差別がない事を意味している。







by johsei1129 | 2019-04-29 20:11 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
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