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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 01月 31日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(49)

【常不軽品三十箇の大事】

 第十三 常不値仏 不聞法 不見僧の事(注)


 御義口伝に云く、此の文は不軽菩薩を軽賤するが故に、三宝(注)を拝見せざる事、二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり。


 今末法に入つて、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤(きょうせん)せん事は、彼(注)に過ぎたり。

 彼は千劫、此れ(日蓮等の類)は至無数(注)なり。


 末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目(注)なり。僧とは我等行者なり。

仏とも云われ、又凡夫僧(注)とも云わるるなり。深覚円理名之為仏(注)の故なり、円理(注)とは法華経なり云云。



常不値仏 不聞法 不見僧の事

常不仏 不聞法 不見僧 千劫於 阿鼻地獄 受大苦悩

[和訳]

常に仏に値わず、法を聞かず、僧を見ずして、 千劫も阿鼻地獄に於いて、大苦悩を受けん。


不軽菩薩を軽賤する者。


三宝

仏・法・僧の事。

釈迦在世であれば、仏は釈尊、法は法華経を最上位とす一切経、僧は釈尊の法を伝える舎利弗・阿難等の出家僧。

日蓮大聖人にあっては、仏は日蓮大聖人、法は三大秘法の南無妙法蓮華経、僧は別しては日興上人、総じては日目上人、及び着々付法の時の貫主。


 何宗であっても仏教と称するならば、三宝が揃っていなければならない。

 もし三宝が揃っていないれば、その宗教は内道(仏教)ではなく外道である。外道は過去世・現世・来世の三世が説かれていない。


 日蓮大聖人は内道、外道の根本的な差異について【開目抄上】の前半で次のように解き明かされている。

 『かくのごとく巧に立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。玄とは黒なり、幽なり。かるがゆへに玄という。但現在計りしれるににたり。

 現在にをひて仁義を制して、身をまほり、国を安んず、此に相違すれば族(やから)をほろぼし家を亡ぼす等いう。此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず、未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし』と。


仏教上の極めて長遠な時間。

仏教史上中興の祖と謳われた竜樹(2世紀頃南インドに生まれる)の著作「大智度論」では、1辺4000里の岩を100年に1度布でなで、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たない」と、説かれている。

 

尚、釈尊の八万法蔵と言われる仏典(一切経)は全て「如是我聞(是の如き我、聞かん)」で始まるが、この様式を定めたのが竜樹と言われている。

また如是我聞の我とは、27歳の時から釈尊の秘書官(従者)としての役割を果たし、釈尊の説法を傍で聞いてきた釈尊の十大弟子の一人で、多聞第一と謂われた阿難である。

阿難は釈迦滅後の仏典結集の時、釈尊の説いた教えを自らが中心となって読み上げたと言われている。


凡夫僧

釈尊はインド釈迦族の王子として誕生し、三十二相八十種好と言う優れた姿をしていたとされているが、日蓮大聖人は安房の小湊の漁師という殺生を生業とする家に生まれたが、【佐渡御勘気抄】で自らをインドでは最下層の旃陀羅(せんだら)の生まれで、「凡夫僧」であると宣言していた。

日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり。いたづらにく(朽)ちん身を、法華経の御故に捨てまいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや」と。


深覚円理 名之為仏

「深く円理を覚る、これ仏と為すと名付けり」と読む。


円理

仏が説く違いがなく咎(とが)がない円満な法理。


日蓮大聖人は【真言見聞】で次のように説かれております。

深く諸仏、秘密の法に入り演説す可き所、違無く失(とが)無し」と。








by johsei1129 | 2019-01-31 15:14 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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