【常不軽品三十箇の大事】
第十二 常不軽菩薩豈異人乎 則我身是の事(注)
御義口伝に云く、過去の不軽菩薩は今日の釈尊(注)なり。
釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは、我等法華経の行者なり。(注)
さては我等が事なり。今日蓮等の類は不軽なり云云。
注
常不軽菩薩 豈異人乎(きいにんこ) 則我身是
常不軽菩薩品の文で「爾の時の不軽菩薩は豈異人(あに・ことひと)ならんや、則ち我が身(釈尊)是れなり」と読む。
今日の釈尊
末法今日の釈尊の意で、末法の御本仏日蓮大聖人をさし示しておられる。
寿量品の教主とは我等法華経の行者なり
日蓮大聖人は上記の根拠について、
御義口伝【神力品八箇の大事】の第一 妙法蓮華経如来神力の事で、次のように説き明かされておられます。
『御義口伝に云く、此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり。既に此の品(神力品)の時、上行菩薩(注)に付属し給う故なり。
惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は、宝塔品の時、事・起り、寿量品の時、事・顕れ、神力属累の時、事・竟(おわ)るなり』と。
上行菩薩
釈尊より、自身滅後の妙法蓮華経の弘通を付属された地涌の菩薩の上首。
日蓮大聖人は上行菩薩の再誕として末法に生まれ、竜の口の法難で発迹顕本をして末法の本仏としての本地を顕されました。
『日蓮が諸難について御とぶらひ、今に・はじめざる志ありがたく候。法華経の行者として・かかる大難にあひ候は、くやしくおもひ候はず。いかほど生をうけ死にあひ候とも、是ほどの果報の生死は候はじ。又三悪・四趣にこそ候いつらめ。今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候。(中略)
若し然らば日蓮・法華経の法師なる事疑なきか。則ち如来にもに(似)たるらん。「行如来事」をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を、日蓮粗ひろめ申すなり。此れ即ち上行菩薩の御使いか』と。