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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 01月 23日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】要点解説(43)

【常不軽品三十箇の大事】


 第七 乃至遠見の事(注)

 御義口伝に云く、上の凡有所見の見(注)は、内証所具の仏性を見るなり。此れは理なり。遠見の見(注)は四衆と云う間、事なり。仍つて上は心法を見る、今は色法を見る。色法は本門の開悟・四一開会なり。

 心法を見るは迹門の意、又四一開会なり。遠の一字は寿量品の久遠なり。故に故往礼拝(こおう・らいはい)といえり云云。


乃至遠見(ないしおんけん)の事
本箇所は、常不軽品の下記の文文の「凡有所見」と、「遠見」の見の違いについて、日蓮大聖人が解き明かされております。

凡有所見(ぼんぬしょけん)の見
全ての衆生の命の奥底に内在している仏性を見る、との意で、まだ実際に仏の命が開かれていない段階を示しているので『此れは理なり』と日蓮大聖人は断じておられる。

遠見の見
四衆を遠くに見て不軽菩薩が四衆に内在する仏性に礼拝し、仏性を開く菩薩行を為しているのでこれは事(行)であると日蓮大聖人は断じられておられる。
末法では全ての衆生(四衆)に『南無妙法蓮華経』と唱えるよう語っていくのは、事行としての菩薩行を行じていることになる。

日蓮大聖人は【諸法実相抄】 で、妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、として次の様に解き明かされておられます。
 『いかにも今度(このたび)・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我久遠より来(この)かた是等の衆を教化す」とは是なり。
 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず。皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。
 ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住(りょうぼうくじゅう)の故なり。既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛(はた)をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや。併(しかしなが)ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり』と。

下記は上記に該当する常不軽品の文文
[原文]
是比丘 凡有所見 若比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷
皆悉礼拜讃歎 而作是言 我深敬汝等 不敢軽慢
所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏
而是比丘 不専読誦経典 但行礼拜 乃至遠見 四衆(注)
亦復故往。礼拜讃歎。而作是言。我不敢 軽於汝等 汝等皆当作仏故
[和訳]
是の比丘は 凡そ見る所有らば、若くは、比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷を、
皆、悉く礼拜・讃歎し、而して是の言を作せり、『我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず』
所以は何ん、汝等皆、菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし
而も是の比丘は、専ら経典を読誦せず、但、礼拜を行じ、乃至、遠くに四衆を見ても
また、ことさらに往きて、礼拜・讃歎し、而して是の言を作せり。『我、敢て汝等を軽んぜず、汝等は、皆、当に仏となるが故なり』

四衆
比丘(男の出家僧) 、比丘尼(女の出家僧)、 優婆塞(男性信徒)、 優婆夷(女性信徒)







by johsei1129 | 2019-01-23 20:14 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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