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日蓮大聖人『御書』解説

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2018年 07月 08日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(94)

【提婆達多品八箇の大事】

第八 有一宝珠の事
文句の八に云く、一とは珠を献じて円解を得ることを表すと。


御義口伝に云く、一とは妙法蓮華経なり、宝とは妙法の用なり、珠とは妙法の体なり。

 

 妙の故に心法なり、法の故に色法なり。

色法は珠なり、心法は宝なり、妙法とは色心不二なり。
一念三千を所表して竜女宝珠を奉るなり。釈に表得円解と云うは、一念三千なり。

 
竜女が手に持てる時は、性得の宝珠なり、仏受け取り給う時は修得の宝珠なり。中に有るは修性不二なり。

甚疾とは頓極・頓速・頓証の法門なり、即為疾得無上仏道なり。

 
神力とは、神は心法なり、力とは色法なり、観我成仏とは舎利弗、竜女が成仏と思うが僻事なり。

我が成仏ぞと観ぜよと、責めたるなり。


観に、六則観、之れ有り。爰元(ここもと)の観は、名字即の観と心得可きなり。

 其の故は、南無妙法蓮華経と聞ける処を、一念坐道場 成仏不虚也(注)と云えり。

変成男子とは、竜女も本地、南無妙法蓮華経なり。其の意、経文に分明なり。


(注)

一念坐道場 成仏不虚也

 天台の法華文句の文言で「一念に道場に坐して、成仏虚しからざるなり」とある。
天台の仏となるための修行法は、つまるところ釈迦が菩提樹の下で端座し、己の命を内観して成道したのと同様に、道場に坐して己の命を内観し悟りを極めようとした。
 しかし末法においては、釈尊の白法は隠没し、大集経の予言通り、此の修行法では仏になれず末法では効力がなくなっている。
この事について日蓮大聖人は【顕仏未来記】で次の様に解き明かされておられます。
『疑つて云く正像の二時を末法に相対するに時と機と共に正像は殊に勝るるなり、何ぞ其の時機を捨てて偏に当時を指すや。
 答えて云く仏意測り難し、予未だ之を得ず、試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘うるに、正法千年は教行証の三つ具さに之を備う。像法千年には教行のみ有つて証無し、末法には教のみ有つて行証無し等云云』と。

 釈迦在世の弟子は全て王族、長者の子息・子女で経済的に余裕があり、働かずとも修行することが可能だった。法華経で説かれている「善男女」とは素性の良い男女を意味し、過去世に善行を積み、経済的にも恵まれ、社会的地位も高い境遇で生まれたことを意味している。その意味で釈迦は釈迦族の王子として生まれる因縁があったことになる。

 それに対し末法の大半の衆生は、社会で働きながら修行する必要があり、そのための修行法として日蓮大聖人は、自らの仏の魂魄を図現した御本尊に南無妙法蓮華経と唱えるいう究極の修行法を確立することになる。そして自身は『日蓮は日本・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり【佐渡御勘気抄】として、法華経有縁の日本に一庶民として生を受ける一大事因縁があったことになる。
その意味で、末法今時に於いては、日蓮大聖人が建立した「十界曼荼羅のご本尊」に南無妙法蓮華経と唱えることが「即為疾得無上仏道」そのものとなる。


【御義口伝 上】要点解説(95)に続く



by johsei1129 | 2018-07-08 23:04 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)
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