日蓮大聖人『御書』解説

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2018年 06月 13日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(79)

【宝塔品二十箇の大事】

第十三 若有能持 則持仏身の事

御義口伝に云く、法華経を持ち奉るとは、我が身、仏身と持つなり。


則の一字は生仏不二なり、上の能持の持は、凡夫なり、持つ体は妙法の五字(妙法蓮華経)なり。 

 仏身を持つと云うは、一一文文、皆金色仏体の故なり。

 さて仏身を持つとは、我が身の外に仏無しと、持つを云うなり。

 理即の凡夫と究竟即の仏(注)と、二無きなり。即の字は、即故初後不二の故なり云云。


(注)
理即の凡夫と究竟即の仏


天台は衆生が法華経に帰依し、修行して仏になる段階を(理即・名字即・観行即・相似・分真即・究竟即)の六即として分別した。
理即は、すべての衆生は、理の段階として仏性を有する。

名字即は、始めて法華経を信仰し、仏道の修行に入った段階。

観行即は、己心に仏性を観すべく修行する段階。

相似即は、世俗の欲望を断じ、悟りの境地に相似した段階。

分真即は、衆生救済する菩薩の段階。

究竟即は、悟りきった仏の境涯。


上記の天台の六即について日蓮大聖人は御義口伝【寿量品二十七箇の大事】で、末法の本仏の立場で次の様に解き明かされておられます。
『御義口伝に云く、此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり、神力品の付属是なり。如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。
 今、日蓮等の類いの意は、惣じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり、無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり。

六即の配立の時は、此の品の如来は理即の凡夫なり、頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり、此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障を伏するを相似即と云うなり、化他に出づるを分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり。
 惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯、凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり。
 無作の三身の所作は何物ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり云云」と。




【御義口伝 上】要点解説(80)に続く








by johsei1129 | 2018-06-13 22:27 | 御義口伝 | Trackback | Comments(2)
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Commented by ひろた at 2018-06-14 14:51 x
【御義口伝 上】要点解説(79)
修行して仏になる段階を(理卽・名字卽・観行卽・相似卽・分真卽・究竟即)の六即として分別した。 ・・・・・・

卽・即の字体の区別には、何か意味合いがあるのでしょうか?
Commented by johsei1129 at 2018-06-14 21:25
卽は旧字体で、即は新字体です。意味の違いはありません。
底本の御書は新字体ですので、紛らわしいので新字体に統一致しますのでご確認願います。
ご指摘、ありがとうございます。


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