【法師品十五箇の大事】
第六 聞法信受 随順不逆の事
御義口伝に云く、聞とは名字即(注)なり。
法とは題目なり、信受とは受持なり。
随順不逆とは本迹二門に随順するなり。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。
(注)
名字即
天台は「摩訶止観」で、法華経への信仰が深まって、仏の境涯=仏界を覚知していく段階を「六即」の概念で、以下のように説いた。
理即 法華経を信仰していなくとも、全ての衆生に、理の段階で仏界が存在するとした。
名字即 始めて法華経の偈(名字)を聞き、信仰を始めた段階。名字卽から、仏の境涯を目指し仏道に入ることになる。
観行即 観行とは己心を観ずる行で、経(名字)を学び、修行で己心に仏性を観じ、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。
相似即 勧行の修行の結果、見思 ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、仏の覚りに相似した六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の位をいいます。
分真即、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明を残して迷いを滅し、仏の悟りの一部分を体現している段階。
究竟即(くきょうそく) 完全なる仏の覚りに到達している段階。
日蓮大聖人は天台の六即を御義口伝で、次の様に簡明に解き明かしております。
『六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり、頭(こうべ)に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。
聞き奉りて修行するは観行即なり、此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり、化他に出づるを分真即と云うなり、無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり』と。
さらに日蓮大聖人は、自らが図現した十界曼荼羅のご本尊に「南無妙法蓮華経」と唱えることで、己心に冥伏している仏界を開くことができるという、末法における究極の「行」を確立します。
この御本尊の意義についいて、流罪地の佐渡で著した「観心本尊抄」で次のように解き明かしておられます。
「一念三千(仏界)を識らざる者には、仏(日蓮大聖人は)、大慈悲を起し、五字(妙法蓮華経)の内に此の珠(一念三千)を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と。
【御義口伝 上】要点解説(58)に続く
要点解説 目次