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日蓮大聖人『御書』解説

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2018年 05月 18日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(57)

【法師品十五箇の大事】

第六 聞法信受 随順不逆の事
 

御義口伝に云く、聞とは名字即(注)なり。

法とは題目なり、信受とは受持なり。

随順不逆とは本迹二門に随順するなり。


今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。


(注)

名字即

天台は「摩訶止観」で、法華経への信仰が深まって、仏の境涯=仏界を覚知していく段階を「六即」の概念で、以下のように説いた。


理即
 法華経を信仰していなくとも、全ての衆生に、理の段階で仏界が存在するとした。

名字即  始めて法華経の偈(名字)を聞き、信仰を始めた段階。名字卽から、仏の境涯を目指し仏道に入ることになる。

観行即  観行とは己心を観ずる行で、経(名字)を学び、修行で己心に仏性を観じ、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。

相似即 勧行の修行の結果、見思 ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、仏の覚りに相似した六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の位をいいます。

分真即、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明を残して迷いを滅し、仏の悟りの一部分を体現している段階。

究竟即(くきょうそく) 完全なる仏の覚りに到達している段階。


日蓮大聖人は天台の六即を御義口伝で、次の様に簡明に解き明かしております。
『六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり、頭(こうべ)に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。
聞き奉りて修行するは観行即なり、此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり、化他に出づるを分真即と云うなり、無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり』と。

さらに日蓮大聖人は、自らが図現した十界曼荼羅のご本尊に「南無妙法蓮華経」と唱えることで、己心に冥伏している仏界を開くことができるという、末法における究極の「行」を確立します。
この御本尊の意義についいて、流罪地の佐渡で著した「観心本尊抄」で次のように解き明かしておられます。

「一念三千(仏界)を識らざる者には、仏(日蓮大聖人は)、大慈悲を起し、五字(妙法蓮華経)の内に此の珠(一念三千)を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と。


【御義口伝 上】要点解説(58)に続く



要点解説 目次




by johsei1129 | 2018-05-18 00:05 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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