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日蓮大聖人『御書』解説

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2018年 03月 01日

末法の本仏の立場で法華経二十八品を後継者、日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(31)

【薬草喩品五箇の大事】

 第一 薬草喩(やくそうゆ)品の事  (注)

 記の七に云く「無始の性徳は地の如く、大乗の心を発するは種の如し。二乗(注)の心を発するは草木の芽茎の如し。
 今、初住(注)に入るは同じく仏乗の芽茎等を成ずるが如し」と。

 
 御義口伝に云く、法華の心を信ずるは種なり。諸法実相の内証に入れば仏果を成ずるなり。
 薬とは九界の衆生の心法なり、其の故は権教の心は毒草なり、法華に値いぬれば、三毒の煩悩の心地を三身果満の種なりと開覚するを薬とは云うなり。

 今、日蓮等の類い妙法の薬を煩悩の草に受くるなり。煩悩即菩提・生死即涅槃と覚らしむるを喩とは云うなり。
 釈に云く「喩とは暁訓(注)なり」と。薬草喩とは我等行者の事なり。


薬草喩品の事
釈尊は法華経で衆生が理解できるように、譬喩を用いて説いていった。

それらの代表的な7つの比喩を「法華経七譬(しちひ)」と言い、薬草喩はその中の一つ。

 その喩えとは、仏が衆生に説法して仏道に導くことの意義を、雷鳴が鳴るとともに大空に雷雲が出現し、雨が降り、あらゆる草木、樹木に不足することのない十分な雨水を降り注ぎ、その雨水を大地の草木が吸収し、それぞれの遺伝的特質に応じて、草木は草木として、大樹は大樹として成長することを喩えとして解き明かした。

またその水はすべて同じ味、つまり一味で、仏の説法も同様に、前世の因縁で様々な気根を持つ衆生にも、同じ法華経という優れて不思議な一味の経を説くのだと解き明かした。


二乗
 六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)から脱した四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)と呼ばれる境涯の中の縁覚・声聞を示す。
 縁覚は縁に触れて悟る境涯で、例えばニュートンがりんごが木から落ちるのを見て「万有引力」の法則を発見したような境涯を言う。
 声聞は仏の声を聞き理解することができる境涯を言う。
 釈迦の二大弟子で、智慧第一と謳われた舎利弗は声聞、神通第一と謳われた目犍連は独覚の境涯と言われていた。
 しかし釈迦は法華経を説く以前、二乗は仏の悟りと比べると遥かに小さい悟り、浅い理解で満足し、その境涯でとどまる事から、成仏することは叶わないと厳しく指導されていた。
 その二乗の舎利弗は法華経譬喩品第三で、未来世で「華光如来」となるとの記別を受ける。また目犍連は法華経授記品第六で、多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。

 日蓮大聖人はこの仏から地獄までの十界の境涯について【観心本尊抄】で次の様にわかりやすく平易に解き明かされておられます。
『今、数(しばし)ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず。自面も亦復是くの如し。如何が信心を立てんや。
 答う、数ば他面を見るに或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平(たいら)に、或時は貪(むざぼ)り現じ、或時は癡(おろか)現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之れ有り。四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。

 問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり。四聖は全く見えざるは如何。
 答えて曰く、前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり。四聖も又爾る可きか。試みに道理を添加して万か一之を宣べん。
 所以に世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云。末代の凡夫・出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり』と。



妙楽大師の法華文句記
妙楽大師:名は湛然(たんねん 711年 - 782年)中国天台宗第六祖、著作『止観輔行伝弘決』10巻『法華玄義釈籤』10巻『法華文句記』10巻


初住
菩薩行52位のうち、十住の初めの位で、不退転(この位から退くことはない)の位。
日蓮大聖人は当体義抄で「爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり。妙楽の釈に云く『開迹顕本・皆初住に入る』と解き明かされておられます。

暁訓(ぎょうくん)
教え諭す事


【御義口伝 上】要点解説(32)に続く


要点解説 目次



by johsei1129 | 2018-03-01 23:30 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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