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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 10月 04日

末法の本仏の立場で法華経二十八品を後継者、日興上人に口伝した書【御義口伝 上】要点解説(8)

【方便品八箇の大事】

  第一方便品の事 (注) 文句(注)の三に云く「方とは秘なり・便とは妙なり。妙・方に達す・即ち是真の秘なり。  
 内衣(ないえ)の裏の無価(むげ)の珠(注)を点ずるに、王の頂上の唯一珠(注)有ると、二無く別無し。客作の人(注)を指すに、是長者の子にして亦二無く別無し。
 此の如きの言は是秘・是妙なり。経の唯我知是相・十方仏亦然・止止不須説・我法妙難思の如し、故に秘を以て方を釈し、妙を以て便を釈す。
 正しく是れ今の品の意なり、故に方便品と言うなり」。
 記の三に云く「第三に秘妙に約して釈するとは、妙を以ての故に即なり。円を以て即と為し、三を不即と為す故に更に不即に対して以て即を釈す」。

 御義口伝に云く、此の釈の中に一珠とは衣裏珠(えりじゅ)・即頂上珠なり。客作の人と長者の子と全く不同之無し。所詮謗法不信の人は、体外の権にして法用能通の二種の方便なり。爰を以て無二無別に非るなり。

 今、日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、是秘妙方便にして体内なり。故に妙法蓮華経と題して次に方便品と云えり。
 妙楽の記の三の釈に「本疏の即是真秘の即を、以円為即と消釈せり」と。即は円なれば法華経の別名なり。即とは凡夫即極、諸法実相の仏なり。
 
 円とは一念三千なり。即と円と言は替れども妙の別名なり。一切衆生実相の仏なれば妙なり・不思議なり。謗法の人、今・之を知らざる故に之を秘と云う。
 又云く法界三千を秘妙とは云うなり。秘とはきびしきなり・三千羅列なり。是より外に不思議之無し。大謗法の人たりと云うとも、妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮経方便品とは云うなり。 

 今、末法に入つて正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るを妙法蓮華経方便品とは云うなり。是を即身成仏とも如是本末究竟等とも説く。
方便とは十界の事なり、又は無明なり。
 妙法蓮華経は十界の頂上なり、又は法性なり、煩悩即菩提・生死即涅槃是なり。
以円為即とは一念三千なり。妙と即とは同じ物なり。一字の一念三千と云う事は円と妙とを云うなり。円とは諸法実相なり。円とは釈に云く「円を円融円満に名く」と。円融は迹門、円満は本門なり。又は止観の二法なり、又は我等が色心の二法なり。
 一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり。口は一念なり員(かず)は三千なり。一念三千とは不思議と云う事なり。此の妙は前三教に未だ之を説かず、故に秘と云うなり。
故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり。妙法蓮華経は九識(注)なり、十界は八識已下なり。心を留めて之を案ず可し。
 方とは即十方、十方は即十界なり・便とは不思議と云う事なり云云。


 方便品
 方便品第二 ここから釈尊が智慧第一の舎利弗を対告衆として妙法蓮華経の説法を始める。
 日蓮大聖人は「月水御書」で次のように「勝れてめでたきは方便品と如来寿量品の二品」であると断じておられる。
 「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは、方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」と。
 方便品では仏が世に出現した目的「一大事因縁」を説き、すべての衆生に仏性(仏の命)があり、仏はその仏性を開き、示し、悟らせ、仏の道に入らせる「開・示・悟・入」の為に出現したと・霊鷲山の法華経の座に連なった舎利弗以下の千二百人の直弟子に示した。そして次の譬喩品第三で、法華経を説く以前には声聞・縁覚の二乗は作仏しないと厳しく責めていた声聞第一の舎利弗に対し、法華経で修行することで未来世で「華光如来」となるとする記別をあたえる。

 内衣裏の無価の珠、王の頂上の唯一珠、客作の人 法華経に説かれる7つのたとえ話(法華七喩)の中の三つの例え話を示しております。
詳細はウィキペディアを参照して下さい。
ウィキペディアでは「内衣裏の無価の珠」は、5.衣裏繋珠、「王の頂上の唯一珠」は 6.髻中明珠 、「客作の人」は2.長者窮子として説明されております。

 九識
 人間の心の認識のあり方を浅い段階から究極の深層の九識まで分類した論。
 眼・耳・鼻・舌・身・意までの五識、六識の末那(まな)識、七識の阿頼耶(あらや)識、八識の阿摩羅(あまら)識、九識(九識心王真如の都=仏性)。

 日蓮大聖人は「御講聞書」で九識について次のように解き明かしておられます。
 「蓮華 とは本因本果なり。此の本因本果と云うは一念三千なり。本有の因・本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。本因の因と云うは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云うは信心領納の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり。日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗(むね)とするなり。本因なくしては本果有る可からず。仍て本因とは慧の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く「若しは山谷曠野」等と説けり。即ち是れ道場と見えたり。豈法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや」


【御義口伝 上】要点解説(9)に続く





by johsei1129 | 2017-10-04 23:01 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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