2021年 10月 22日
道に枯れ葉が落ち、秋の気配がただよってきた。 日蓮は松葉ヶ谷の草庵に参詣する人々に、根気よく法華経の信心と他宗の誤りを説いていった。 巷間伝えられる日蓮の辻説法だが、のこされた書を見るかぎり実際にはしていない。たまたま道端で会話する事はあっても、布教の基本は草庵内で、静かに落ち着いて聞ける環境でおこない、時に法門について質問があれば、その者の志を称え、問答をしながら説いていった。 日蓮が立宗宣言した建長五年の末、十二月九日に同郷の信徒、富木常忍に送った最初の消息文が今も残っている。 よろこびて御とのびと給はりて候。ひるはみぐるしう候へば、よるまいり候はんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給はるべく候。又御はたり候ひて法門をも御だんぎあるべく候。 十二月九日 日蓮 とき殿 『富木殿御返事』 (訳) お迎えの殿人をつかわして頂けるとのことで喜んでおります。日中は人目につきますので、夜にお伺いしたいと思います。夕方の酉(6時ごろ)の刻にお迎え頂ければと思います。また、こちらにもおいで頂き法門について御談義できればよいかと存じます。 辻説法は見た目は派手だが効果は少ない。今も政治家が街頭でマイクをにぎるが、聴衆はお目当ての政治家の姿、顔は見ても、演説はほとんど聞いていない。釈迦も基本は王や豪族から寄進された寺院、たとえば竹林精舎(注)などで説法をしている。 鎌倉八幡宮に雪がふる。 通りかかる武士や町民が宮にむかって手をあわせている。 鎌倉八幡宮は鶴岡八幡宮ともいう。康平六年(一○六三年)河内源氏二代目の源頼義が京都の石清水八幡宮護国寺から勧請したのが始まりである。それいらい源氏の守護神としてあがめられた。そのため八幡宮の前を通る者は必ず手をあわせた。 日蓮の松葉ヶ谷の草庵にも粉雪が舞い込んできた。 日蓮は季節の変化に時の流れを感じつつも、草庵では変わることなく、根気よく聴衆に法華経の説法を続けていた。
時が過ぎ、やがて立宗宣言をした建長五年から三度目の春を迎えた。元号は建長八年(一二五六年)十月五日に、康元と改元された。 若宮大路の段葛(注)の両脇には桜の花が咲き乱れ、鎌倉の人々は陽春の喜びに満ち満ちていた。 草庵の窓からは花から花へと優雅に飛び交う蝶が見える。 日蓮の名がしだいに鎌倉にひろまってきた。 日蓮に帰依し、南妙法蓮華経と唱える信徒が一人また一人と誕生した。 草庵に参集する聴衆の中には武士もまじっていた。 盛況である。 日蓮がいつものように法華経の経巻を手に語りだした。 「普賢経にいわく『衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す』と。すなわち正しい仏法を信ずれば、過去世の罪障は消え去っていくという意味であります」 「おまちくだされ」 若い武士が唐突に日蓮の話をさえぎった。まだ二十代であろう。青年は眉間に皺をよせた。 「いまの話、納得いかぬものあり。人間、毎日を罪深く生きておるもの。まして我ら武士は殺生もいとわぬ者どもでござる。いかに仏であろうと罪深い我らを救うことができましょうや」 突然の質問だった。 日蓮は笑みを浮かべて答える。 「まことによい質問です。この問いに答えるためには、まず我らはなんのためにこの世に生まれたかを考えねばならない。末法の衆生は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を巡り巡っている。縁に触れ、願いがかなえば有頂天になり、主君から咎められ勘気を受ければ地獄に陥った思いをします。ある時は怒り、ある時は嘆き、時に畜生のように上の者にへつらい、下の者を蔑む。この繰り返しでは現世も安穏に暮らせず、後生も善き処には生まれないでしょう。そのためには仏の道に入らなければなりません」 「ほう、では仏を信じない者は、どれに命をかけていると」 日蓮が諭すようにその武士に語りかけた。 「世間では男は恥に命を捨て、女は男のために命を捨てるといいます。又、畜生の身である魚は命を惜しむゆえに池に住むが、池の浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って棲む。しかし餌にばかされて網にかかる。鳥は木に住みます。木が低いことで敵に狙われる事を怖じて木の上の枝にすむが、餌にばかされて網にかかってしまう。人もまた同じことです。世間の価値のない浅いことに身命を失うことはあっても、人に生まれて最も大事な仏の道に命を捨てる事は難しいのです。それ故、仏になる人もいないのです」 日蓮に諭された侍は憤って反論する。 「ばかな。武士は一所懸命といって自分の土地を死ぬまでたもち、一族郎党を守るのが役目である。それが武士というもの。餌にばかされるというのはなんたる雑言。撤回されよ」 この様子を見ていた別の武士が口をはさんだ。どことなく気品があり、おちついた口調である。 「失礼ながら、この場は説法をうかがう貴い場でござる。良薬口ににがく、忠言耳に逆らう。たとえ自分の考えとはちがっていても、心を静めて聞くのが武士ではありませぬか」 若い侍がさらに興奮した。 「なにを聞いた口を。このわしに忠言するとは、よほどの愚か者じゃな。われこそは北条光時様の家臣、中務三郎左衛門の尉頼基、人呼んで四条金吾(注)と申す者。この鎌倉ではだれも知らぬ者はない。おぬし、名乗ってみよ」 「下総千葉の介の家臣、土木常忍と申します。同郷の縁もあり四年前に日蓮上人の信徒となりました。本日は鎌倉に所用があり、有難くも上人の法座にまいることができました。四条金吾とやら、ここは武士も百姓もへだてのないところでござる。法を求めるのに身分などは関係なかろう。いかがかな」 まさに正論である。 勢いにまかせて声を張りあげたが四条金吾は返答に窮した。彼は顔を真っ赤にして立ちあがった。 「拙者、所用がある、御免」 日蓮はあえて引き止めなかった。弟子たちには「あの御仁は近々必ずこの草庵に見参するでしょう」と言い伝えた。 この時、日蓮は四条金吾が去った出口に旅姿の百姓が立っているのに気づいた。長旅で疲れきった様子である。見覚えのある顔だ。 日蓮が思わず中腰になった。 「おお、そなたは・・」 安房清澄寺の百姓だった。彼は日蓮を見つけて、ほっとして土間にすわりこんだ。 「上人、お助けくだされ、清澄寺が・・」
竹林精舎(ちくりんしょうじゃ) 中インドのマガダ国の首都、王舎城(現ビハール州ラージギル)に実在した仏教史上、最初の寺院。迦蘭陀長者が所有していた竹園で、長者が釈尊に帰依したことから仏教の僧園として寄進、その土地に頻婆娑羅(ビンビサーラ)王が、僧侶の宿舎として伽藍を建立したといわれいる。 大唐西域記で『釈尊がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」が、インド政府考古局の調査で発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認された。 四条金吾 寛喜二(一二三〇)年生まれ。妻の日眼女は寛元元(一二四三)年生まれであることが『四条金吾殿女房御返事』「今三十三の御やく」の記述よりわかる。尚、四条金吾の母は池上家の娘と伝えられている。
by johsei1129
| 2021-10-22 16:40
| 小説 日蓮の生涯 上
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