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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 02月 12日

唱法華題目抄 要点解説その二

引き続き大聖人は「仰せに付いて疑はしき事侍り、実にてや侍るらん<中略>是れ偏えに(法華経は)理深解微の故に教は至つて深く、(末法の衆生の)機は実に浅きがいたす処なり。只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音勢至等の法華経を説き給わん時聞いて悟を得んには如かじ」と、論難を立てます。

この論難は、法華経は教は深く、(末法の衆生の)機は浅いため悟ることは叶わない。それより弥陀の名号を唱えて、一旦、西方極楽世界に往生し、それから阿弥陀如来・観音勢至等の法華経を聞いて悟を得ることには及ばないと、専修念仏を唱える法然のを主張を示しています。

「此の結縁の衆をば天台妙楽は名字観行の位にかなひたる人なりと定め給へり。名字観行の位は一念三千の義理を弁へ、十法成乗の観を凝し、能能義理を弁えたる人なり。
一念随喜・五十展転と申すも天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり。博地の凡夫の事にはあらず然るに、我等は末代の一字一句等の結縁の衆一分の義理をも知らざらんは、豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや。
是れ偏えに理深解微の故に教は至つて深く、機は実に浅きがいたす処なり。只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音勢至等の法華経を説き給わん時聞いて悟を得んには如かじ。
然るに弥陀の本願は有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒等をも択ばず、只一念唱うれば臨終に必ず弥陀如来・本願の故に来迎し給ふ是を以て思うに此の土にして法華経の結縁を捨て、浄土に往生せんとをもふは、億千世界の塵点を経ずして疾法華経を悟るがためなり。
法華経の根機にあたはざる人の此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く極楽の業は定まらず、中間になりて中中法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと申し侍るは如何に。

其の上只今承り候へば僅に法華経の結縁計ならば、三悪道に堕ちざる計にてこそ候へ。六道の生死を出るにはあらず。念仏の法門はなにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞え侍れ」と。

この論難に対し大聖人は次のように反駁します。
答えて云く、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にも侍るなればさこそと存じ候へども、但し若し御物語のごとく侍らばすこし不審なる事侍り。
大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには、名字観行の者とは釈せられて侍れども、正しく名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり、後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗して之を捨てし者なり。
設え義理を知るようなる者なりとも謗法の人にあらん上は、三千塵点無量塵点も経べく侍るか。
五十展転一念随喜の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入る可からずと仰せ候か。是を天台妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては、又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。

所詮仰せの御義を委く案ずれば、をそれにては候へども謗法の一分にやあらんずらん。
其の故は、法華経を我等末代の機に叶い難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや、若しさやうに侍らば末代の一切衆生の中に此の御詞を聞きて、既に法華経を信ずる者も打ち捨て、未だ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず、随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん。
若し謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給うとも御往生は不定にこそ侍らんずらめ。

又弥陀の名号を唱へ極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは、何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん。正くつよき証文候か若しなくば其の義たのもしからず。
前に申し候いつるがごとく、法華経を信じ侍るはさせる解なけれども三悪道には堕すべからず候ほ、六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。
但し悪知識に値つて法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは、力及ばざるか。

又仰せに付いて驚き覚え侍り、其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を、智者申されしかばさかと思い侍る処に、只今の仰せの如くならば弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ。
抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり。又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん、委く承り候はばや。
又義理をも知らざる者僅かに法華経を信じ侍るが、悪智識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の世間の悪業に引かれては、悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか。
又無智の者の念仏申して往生すると、何に見えてあるやらんと申し給うこそ、よに事あたらしく侍れ。雙観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明かに見えて侍らん上はなにとか疑い給うべき」と。






by johsei1129 | 2017-02-12 20:30 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)
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