日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 01月 24日

立正観抄 要点解説その五

次に日蓮大聖人は天台自身が、理ではなく、妙法そのものを証得(悟る)したかどうかと論難を立てます。
問う、天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや。答う、内証爾らざるなり。外用に於ては之を弘通したまわざるなり。所謂内証の辺をば祕して、外用には三観と号して、一念三千の法門を示現し給うなり

引き続き「問う、何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや」と論難を立て、それに答えます。

「答う、時至らざるが故に、付属に非ざるが故に、迹化なるが故なり。問う、天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや。答う、此の事天台一家の祕事なり。世に流布せる学者之を知らず。潅頂 玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り。天台御入滅の後は石塔の中に之有り。伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き、道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり。
此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文。伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは、両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし。両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし。

故に此の一言を聞くに万法ここに達し、一代の修多羅一言に含す」文。
此の両大師の血脈の如くならば、天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり」と。

大聖人は以上の論難に答えるとともに、結論として「一心三観とは、所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり」と断じ、「若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。都て然る可からず。哀れなり哀れなり」と、当時の延暦寺・天台宗を諫めます。
「但因の処に果有り、果の処に因有り、因果倶時の妙法を観ずるが故に、是くの如き功能を得るなり。
爰に知んぬ、天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて、最祕の上法とすと云える邪義大なる僻見なりと云う事を。
四依弘経の大薩たは既に仏経に依つて諸論を造る。天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや。若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。都て然る可からず。哀れなり哀れなり」と。

<中略>
 「本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。若し天台の止観、法華経に依らずと云わば日本に於ては伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。両大師の伝法既に法華経に依る、豈其の末学之に違せんや。違するを以て知んぬ、当世の天台家の人人、其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事。

さらに日蓮大聖人は当時の延暦寺の僧に対し「天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す<中略>大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して、過無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり」と厳しく破折します。

「天台・伝教の解釈の如くんば、己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり。然而、当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に、天台の血脈相承の秘法を習い失いて、我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り、錦の袋に入れて頚に懸け、箱の底に埋めて高直に売る故に、邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり。天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す。
是れ偏えに達磨の教訓、善無畏の勧なり。故に止観をも知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待・絶待の二妙をも知らず、法華の妙観をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、五時五味の施化をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。
天台・伝教の所伝は法華経は禅・真言より劣れりと習う故に、達磨の邪義、真言の妄語と打ち成つて権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂せざるなり。故に大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して、過無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり」
<中略>
然るに、法華経の仏は寿命無量、常住不滅の仏なり。
禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり。是法住法位、世間相常住の金言に背く僻見なり。禅は法華経の方便、無得道の禅なるを真実常住法と云うが故に外道の常見なり。若し与えて之を言わば、仏の方便三蔵の分斉なり。若し奪つて之を言わば、但外道の邪法なり。与は当分の義、奪は法華の義なり。法華の奪の義を以ての故に、禅は天魔外道の法と云うなり。問う、禅を天魔の法と云う証拠如何、答う前前に申すが如し」と。

最後に本抄の送り状を参照願います。
【立正観抄送状】
今度の御使い誠に御志の程顕れ候い畢んぬ。又種種の御志慥に給候い畢んぬ。
抑承わり候、当世の天台宗等、止観は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云う事。先ず天台一宗に於て流流各別なりと雖も、慧心・檀那の両流を出でず候なり。慧心流の義に云く、止観の一部は本迹二門に亘るなり。謂く、止観の六に云く「観は仏知と名く、止は仏見と名く、念念の中に於て止観現前す。乃至三乗の近執を除く」文、弘決の五に云く「十法既に是れ法華の所乗なり。是の故に還つて法華の文を用いて歎ず。若し迹説に約せば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門只是此の十法を求悟す」文。始の一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。
止観は本迹に亘ると云う事、文証此に依るなりと云えり。次に檀那流には止観は迹門に限ると云う証拠は、弘決の三に云く「還つて教味を借つて以て妙円を顕す。故に知んぬ、一部の文共に円成の開権妙観を成ずるを」文。
此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云う事文に在りて分明なり。両流の異義替れども共に本迹を出でず。当世の天台宗、何くより相承して止観は法華経に勝ると云うや。但し予(日蓮)が所存は、止観法華の勝劣は天地雲泥なり。
 
 若し与えて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは、十徳の中の第一は自解仏乗、第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云く「此の止観は、天台智者己心中に行ずる所の法門を説く」文。弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云く「説己心中所行法門」文。己心所行の法とは、一念三千・一心三観なり。三諦三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門の十如実相の文を依文として釈成し給い畢んぬ。

  爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云う事を。若し奪つて之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教の分斉なり。其の故は、天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。所謂天台大師、大蘇の普賢道場に於て三昧開発し、証を以て師に白す。師の曰く、法華の前方便陀羅尼なりと。霊応伝の第四に云く「智顗(天台大師)、師に代つて金字経を講ず。一心具足万行の処に至つて、顗(智顗)、疑有り。師、為に釈して曰く、汝が疑う所は此乃ち大品次第の意なるのみ。未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文。講ずる所の経、既に権大乗経なり。又「次第」と云えり。故に別教なり。開発せし陀羅尼、又法華前方便と云えり。故に知んぬ、爾前帯権の経は別教の分斉なりと云う事を。己証既に前方便の陀羅尼なり。止観とは「己心中所行の法門」と云うが故に、明かに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云う事を。何に況や本門をや。若し此の意を得ば、檀那流の義尤も吉なり。
 此等の趣を以て、止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有る可く候か。委細の旨は別に一巻(立正観抄 )書き進らせ候なり。又日蓮相承の法門血脈、慥に之を註し奉る、恐恐謹言
文永十二乙亥二月二十八日      日 蓮  花押
最蓮房御返事




by johsei1129 | 2017-01-24 23:28 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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