日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 12月 12日

当体義抄 要点解説その一

「当体義抄」は「観心本尊抄」と同じく文永十年に流罪先の佐渡の地で著わされた法門です。
本抄は日蓮大聖人と同様、佐渡に流罪されていた天台宗の学僧、最蓮房に与えられておられます。最蓮房は文永九年一月十六日に行われた「塚原問答」で大聖人の威徳に打たれ、翌月初旬に大聖人に帰依します。
日蓮大聖人は本抄冒頭で「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」と、まず結論を示されて「妙法蓮華経の体」の詳細について、問答方式で順次論を展開されていきます。
尚、「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや」とは、恐らく最蓮房が大聖人に問われていたのではと強く推察されます

「問う、若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり。
経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云。妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云。
天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云。南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや、答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云。又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。
 
 問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや。答う法性の妙理に染浄の二法有り、染法は熏じて迷と成り、浄法は熏じて悟と成る。悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり。此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり。
譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り、月輪に向えば水を取る。玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し。
真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り、善縁に遇えば悟と成る。

悟は即ち法性なり、迷は即ち無明なり。
譬えば人夢に種種の善悪の業を見、夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し。
一心は法性真如の一理なり、夢の善悪は迷悟の無明法性なり。是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり」と。


当体義抄 要点解説その二に続く




by johsei1129 | 2016-12-12 19:54 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)


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