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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 10月 28日

開目抄 要点解説 その五

日蓮大聖人はさらに自身が法華経勧持品の二十行の偈に説かれた法華経の行者であることの核心に迫り、「日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」と断じます。
また何故法華経の行者に諸天の加護がないのかという疑いについて「此の疑は此の書(開目抄)の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」と門下一同に問いただし、引き続いて論を展開していきます。

「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし。

定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし。

而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。

経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある。
日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云。
日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」
摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん、日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや。
経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ゜悦びをますべし。

例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん。
諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。

 [妙法蓮華経 勧持品第十三]の二十行の偈
 [原文]
 唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説

 有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍

 悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満

 或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賎人間者

 貪著利養故 与白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢

 是人懐悪心 常念世俗事 仮名阿練若 好出我等過

 而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議

 自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別説是経

 常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士

 及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議

 我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所軽言 汝等皆是仏

 如此軽慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖

 悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧

 為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道

 我等於来世 護持仏所嘱 世尊自当知 濁世悪比丘

 不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出

 遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事

 諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所嘱法

 我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住

 我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心
[和訳]
唯、願くば慮いを為さず、仏滅後の後に於いて恐怖悪世の中にて我等当に広く説くべし。
諸の無智な人有りて 悪口罵詈等及び刀杖を加える者を、我等皆、当に忍べし。

悪世中の比丘は邪智にして心諂曲にて、未だ得ずに得たりと謂う我慢の心充満せり。

或は阿練若に有りて納衣にて空閑に在り、自ら真道を行ずと謂いて人間を軽賎する者あり。

利養に貪著する故に白衣(※在家)の為にに説為法し、世(人)の為に恭敬せらる所、六通の羅漢の如し。

是人は悪心を懐いて常に世俗の事を念じ、名を阿練若に仮りて(※)好んで我等の過を出だし、
而も是の如き言を作す「此諸の比丘等は利養に貪する故に外道の論議を説き、自ら此の経典作り世間の人を誑惑し、名聞を求むる故に分別して是の経を説く」と。

常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲する故に、国王大臣、婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かい、誹謗し我が悪を説き「是、邪見の人、外道の論議を説く」と謂わん。
我等は仏を敬う故に悉く是の諸悪を忍ばん。斯(悪世の比丘)の為に軽ぜられれ「汝等は皆是仏なり」と言われても、此の如き軽慢の言を、皆当に忍て之を受けん。
濁劫の悪世の中、多く諸の恐怖あり、悪鬼は其の身に入り我を罵詈毀辱せりとも、我等は仏を敬信する故に、当に忍辱の鎧を著す。
是経を説く為の故に此の諸難事を忍ばん。 我、身命愛せず 但、無上道を惜しむ。

我等は来世に於いて仏に嘱せし所を護持せり。世尊は自から当に知るらん、濁世の悪比丘は 仏が方便にて随宜に説法する所を知らず、悪口し而して顰蹙し数数、擯出をあらわし塔寺より遠離せしめん。是の如き衆悪等を仏の告勅を念ずる故に、皆当に是事を忍べし。

諸の聚落・城邑にて其の法を求むる者有らば、我皆、到其所に到りて仏の所嘱する法を説かん。

我是、世尊の使なれば処衆に処して畏る所なし。我当に善く法を説くべし。願くば仏、安穏に住したまえ。
我、世尊の前に於いて諸の来たりたる十方の仏に是如き誓言を発せり。願わくば仏、自から我が心を知ろしめなされまし。
※白衣:釈尊当時の出家僧は糞掃衣(ふんぞうえ)と言わlるぽろぎれをはぎ合わせた布を身にまとっていた。そのため白衣とは出家僧でない在家の人を意味します。
※阿練若:空閑所と訳され山林等の比丘(僧)が静かに修行する所。

開目抄 要点解説 その六に続く




by johsei1129 | 2016-10-28 21:18 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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