されば末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり。是れ我等が為の能引なり。十界の聖衆は、是れ日蓮体具の十界の聖衆なり。日蓮体具の十界を顕す時に、釈迦・多宝等の十界の聖衆を書き顕し給う者なり。
されば能具の人既に下種の法主なる間、所具の釈迦・多宝等の十界の聖衆も皆悉く生身の妙覚の仏なり。本有の菩薩なり。本有の声聞なり乃至本有の提婆なり。然れば則ち、本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より外に全く一法も無し。仍って南無妙法蓮華経日蓮聖人を以て本尊と為し、能引とするが故に「所化以て同体なり」とは遊ばされたり。
但し観心本尊抄の文は一往文の上を遊ばされたり。全く文底の大事を遊ばされず。されば自ら未だ遊ばされざることわりなり。若し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此れを以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門は是れなり。
然るに一致宗は、吾が祖を習い失うて本尊に迷う。如何が成仏すべけんや。
されば撰時抄の下二十八に云く「上一人より下万民に至るまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて、各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合わせてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はん」云云。
又報恩抄の下三十四に云わく「一には日本乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし」文已上。
此の御書に「本門の教主釈尊」とは久遠名字の釈尊なり。是れ則ち今日の日蓮聖人、倶体倶用但一体の御形なり。依って末法には我が身を本尊とせよと云う事を「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは遊ばされたり。然れば則ち今日の宝塔の中の釈迦・多宝も、此の本仏の臣下・大臣なり。況や其の已外をや。是を以て「釈迦・多宝外」とは遊ばされたり。全く今日の応仏昇進の釈迦・多宝を以て本尊とせよと遊ばされたるには非ず。
爾るを一致の輩脱仏を以て下種の本尊と為すと云えるは瓦を以て玉と為し、石を以て金に執するに似たり。されば撰時抄の御文体は、上も下も智者も愚者も末法に入って上行出世の後は、一切の仏・菩薩、一切の明神・天神等をなげすてて、但声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべしと云う事なり。
聖人知三世抄に云わく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」云云。
つづく
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