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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十六  御本尊に迷う輩(やから)の邪曲・僻見(びゃっけん)をしるす


一 総じて此の一段の御法門について、一致宗の云える事あり。

啓蒙の二十・二十六已下に、()(じょう)()(しょ)九ヲを引き(おわ)って云わく「此の一段の(たい)()は本迹観心の奥義を以て納得すべし。(たい)()所判の在世の脱の類に権者実者を明かし、能引・所引を論ずる意なり。又本迹にも新聖旧聖の品を()かてり。我が()一往弁じたもう時は、本迹二門に当機を立てて、迹門八品に()(もん)の法を聞いて入実し、本門(りゃっ)(かい)に来たって増道するの(おもむき)を弁じたもうなり。今此の一段は、再往滅後(しょう)()の義に約して、在世の二乗等を総じて能引としたまえり。されば釈尊の出世、多宝の証明等、皆(ひとえ)に我等が為なりと信得に及ばせば、勇猛の安心に住して下種得脱の大利を得ん事(たなごころ)を指すが如くならん。是れ当家観心の深意なり」と。

又云わく「当家の行者は他の本迹高広の()(きゅう)聖応(しょうおう)を妙経の五字の要法に収め、無二の信力に住して自己の色心即妙法の全体なりと心得れば、自他不二・(めい)()一体にして三力相応し、即身成仏の素懐を(たちま)ちに()ぐる初心相応の易行観心なり。(なお)立ち入って深く心得る義を云わば、本尊抄に云わく『今本()娑婆(しゃば)世界は三災を離れ○迹仏迹土を表する故なり』以上。是れ則ち十界具足の為体(ていたらく)にして無始(ほん)()なり。されば舎利弗等乃至提婆(だいば)等に至るまで(みな)本有の眷属なり。されば世々番々に本懐を()げたもう時に至っては、本()十界の相貌(そうみょう)を顕して無始迷倒の衆生を引き入れ、本有無作(むさ)の己心に具足の本尊に(かい)()せしめたもう。『所化(しょけ)以て同体』とは此の意なり。是れ則ち本尊と自己と一体不二の玄旨、観心本尊の奥蔵(おうぞう)なり。されば在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引としたもう元意、恐らくは(ここ)に在るべきか」已上略抄。

私に云わく、(これ)()の義は邪義なり。

()ず一は在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引とす。二は他の本迹高広の()(きゅう)の聖応等を妙法五字に収めて、自己の色心即妙法の全体と()すれば成仏するなりと。三は大師の判釈を以て例して吾が祖の(りゅう)()を判ずる事已上。

此の三解の法門、大いに邪曲なり。甚だ僻見(びゃっけん)なり。されば本尊とは、劣を捨てて勝を取って本尊とするなり。但し小乗の(やから)は小乗の本尊なり。大乗の輩は大乗の本尊なり。迹門(しゃくもん)の行者は迹門の本尊なり。本門の行者は本門の本尊なり。(だつ)の行者は脱の本尊なり。下種の行者は下種の本尊なるべし。

されば在世の儀式、塔中(たっちゅう)の釈迦・多宝・上行等、文殊・(しゃ)()(ほつ)等の十界の聖衆は、脱益(だっちゃく)の者の為の能引なるべし。何ぞ此の義を以て我等が為の能引とせんや。()し我等が為に(だつ)の衆を能引とせば能所不対なり。何を以て成仏せんや。

其の上、阿難・目連等、()(みょう)・竜樹等、天台・伝教等は小乗・権大乗・迹門の()(つう)にして熟脱の導師なり。是等の大小・権実の導師も我等が為の能引か。()し能引に非ずと云わば、何ぞ本尊に之を書き(たてまつ)らんや。若し能引と云わば、大小・権実混乱の本尊か、如何(いかん)


つづく


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by johsei1129 | 2016-07-06 15:56 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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