一 啓運抄に云わく「観心本尊抄に一往再王の判有り。今の文之に同じ。然れば再往の深意は本門三段、総じて一部の法門は皆我等が為ぞと云う法門なり。是れ仏の本意、聖人の本懐なり。本尊抄に『本門の序正流通は倶に末法の始めを以て詮と為す』とは是なり。
私に云わく、此の下大いに誤りなり。彼の文に、本門は序正流通倶に本門の題目を以て弘通すべしとなり。依って次下に、種脱を以て判ずる時に「在世の本門と末法の始めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」已上。此の御書、種脱を以て勝劣を判じたもうなり。
初めの一句は時と為す。則ち在世の本門説法の時と、今末法の始め本門弘通の時とは、一同の純円の時なりと云う事なり。
次の一句は教主に約す。彼の釈尊は脱の教主なり。今の日蓮は下種の法主なり。
次の一句は観教に約す。彼の在世の得脱は一品二半を観心と為し、今末法には題目を以て観心と為すなり。
又彼の天台等は一品二半を以て本門と為し、今末法には題目を以て本門とするなり。是くの如く一同二異を判じたもう。是れ豈勝劣に非ずや。此れを以て之を案ずるに、末法の始めより序正流通ともに本門下種の題目のみなり。如何となれば一部を以て末法の所詮とするや。種熟脱を乱ずるのみに非ず、在世も滅後も、像法も末法も雑乱するなり。大邪推なり。
問うて云く、今の抄に云わく「一品二半は一向に滅後の為」と判じたもうは如何。
答えて云く、此の一段は是れは本門に二意を作して傍正を判ずる故に此くの如し。されども一品二半を以て我等が為の下種要法と為すと云うには非ず。
故に下の文に云わく「日蓮は広略を捨てて肝要を取る、所謂上行所伝の妙法蓮華経の五字なり」云云。
此れ若し一品二半が我らが為の出離の要法なるならば、何ぞ「広略を捨つる」と云わんや。されば一品二半の本門は始めより終わりに至るまで滅後の為とは、文底の意に末法の衆生の為に説法するという事、此の文の上の一品二半を以て末法下種の要法にせよと云う事には非ず。上の迹門亦爾なり。是れ則ち日蓮聖人御出現の後は去年の暦なり。六日のしょうぶなり。
故に御相伝に云わく「法華経一部は朽木の書なり」云云。
つづく
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