一 略開の経文
師弟を答えて云わく「我是の娑婆世界に於、阿耨多羅三藐三菩提を得已って、此の諸の菩薩を教化示導し」等云云。又所詮を答うるに「此の諸の菩薩は、皆此の娑婆世界の下、此の界の虚空の中に於て説いて住す」文。又下の偈頌に云く「此等は是れ我が子なり、是の世界に依止す」等云云。又云く「娑婆世界の下方の空中に在って住す」文。又云く「我伽耶城菩提樹下に座す」文。又云わく「我久遠より来是等の衆を教化す」文。
「我伽耶城に於て」とは「我久遠より」の伽耶城なり。此れ則ち実には久遠五百塵点劫の昔の事なり。是くの如きの法門、之を聞く間、弥勒等の大菩薩は「雖脱在現、具騰本種」して後、滅後の我等が為に広開近顕遠の法門を請じ給えり。然るに啓運抄に「昔の伽耶は即ち今日の伽耶、今日の伽耶は即ち昔の伽耶にして、全体不二の意なり」と。恐らくは本意に背くか。
一 啓蒙二十・十四に云わく「今の文は正宗八品を末法流布の正体とする」等云云。
私に云わく、未だ此の法門を聞かず、迹門の正宗八品は凡そ末法流布の主体と云う事を。夫れ天台は是迹門弘通なり。此れすら尚迹門の正宗のみに限らず、法華一部を以て弘通せり。但し迹面本裏の修行なり。
又云く、日蓮大聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう。是れ則ち本面迹裏の法門なり。されば末法流布の正体とは題目の五字に限るなり。何ぞ八品を流布の正体と云わんや。御書一部の中に八品を以て正体と為す証文之有りや。
出して云く、されば報恩抄の下に云く「如是我聞の上の妙法蓮華経」等の文云云。
是等の文は題目を本とする証文なり。されば天台大師は一品二半を本と為し、余品を迹とす。又日蓮聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう。いかなれば八品を以て流布の正体と云うべけんや。甚だ大邪推なり。大僻見なり。早く邪見を改め、速やかに正法に付くべし。
問うて云わく、既に如是我聞の上の題目を本と為す、豈一致に非ずや。
答う、題目に二あり。一には理の題目、二は事の題目なり。理の題目は末法流布の正体に非ず、事の題目を以て正体とするなり。
御書に云く「末法に入て今日蓮が唱うる所の題目は前代に異なり自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と。下の十五・三十一にあり云云。
つづく
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