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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 06月 12日

 妙法曼荼羅供養見聞筆記 八  今、地涌の菩薩は大聖人初発心の弟子なり。本法所持の人にして御書を学する日深く、末法の大難を忍ぶが故に。


  次に本化・迹化相対して三義を作らば、


  一には、迹化は初発心(しょほっしん)の弟子に非ざるが故に。

御書の八・二十一に云く「又迹化(しゃっけ)の大衆は釈尊の初発心の弟子に非ざるが故なり」文。

下の十六・十七に云く「(あるい)は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと(きら)われさせ給う」文。

二には、本法所持の人に(あら)ざるが故に。

本尊抄二十四に云く「又爾前迹門の菩薩なり、本法所持の人に非ざれば、末法の()(ほう)に足らざる者か」文。御義口伝上終。

三には、此の経を学する日浅きが故に。

外十二・二十七に云く「法華経を学する日()さし学も始なり、末代の大難(しの)びがたかるべし」文。  

 

次に本化を召す三義  

 
 一には、初発心の弟子なるが故に。

御書二十五・十六に云く「釈尊に随つて久遠より已来(このかた)(しょ)発心(ほっしん)の弟子なり」文。外十六・十七に云く「此の四菩薩こそ五百塵点(じんてん)(ごう)より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をも()まざる人人なりと見えて候」文。

本尊抄二十七に云く「地涌千界は教主釈尊の(しょ)発心(ほっしん)の弟子なり」文。

二には、本法所持の人なるが故に。

御義口伝上終に云く「()の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌(じゆ)の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず」文。

三には、法華経を学する日深く、末法の大難を忍ぶが故に。

御書には(ただ)ちに其の文無けれども、迹化に対して(こころ)()べきなり。已上、本化・迹化相対の三義なり。  

一 此の四大菩薩等

釈尊初発心の弟子なる事を判じたもうなり。迹化・他方は(あるい)は釈尊の弟子に非ず、或は弟子なれども初発心の弟子に非ず。故に之を(とど)むるなり。今の文の「五百塵点劫」とは初発心の事なり。

「一念も仏を・わすれず・まします」とは、()(おん)の本仏を忘れずして、久遠の妙法を忘れざる菩薩なり。是れ則ち迹にくだらざる菩薩にして、(ただ)本法所持の人なるが故なり。

外十六・十七に云く「此の四菩薩こそ五百塵点より已来(このかた)・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門を()まざる人人なりと見えて候」文。今の文に拝し合すべし。「二門」とは本迹(ほんじゃく)の二門なり。  

一 召し(いだ)して授けさせ給へり

此の授与(じゅよ)に二重の授与あり。一には釈尊より上行菩薩に授与す、今の御文言は是れ一の重なり。二には上行菩薩より一切衆生に授与するなり。

本尊抄に云く「地涌千界(せんがい)の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て(えん)()の衆生に授与せしめ給う」文。


                      つづく

御書文段 目次 



by johsei1129 | 2016-06-12 17:34 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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