次に本化・迹化相対して三義を作らば、
一には、迹化は初発心の弟子に非ざるが故に。
御書の八・二十一に云く「又迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子に非ざるが故なり」文。
下の十六・十七に云く「或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌われさせ給う」文。
二には、本法所持の人に非ざるが故に。
本尊抄二十四に云く「又爾前迹門の菩薩なり、本法所持の人に非ざれば、末法の弘法に足らざる者か」文。御義口伝上終。
三には、此の経を学する日浅きが故に。
外十二・二十七に云く「法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし」文。
次に本化を召す三義
一には、初発心の弟子なるが故に。
御書二十五・十六に云く「釈尊に随つて久遠より已来初発心の弟子なり」文。
外十六・十七に云く「此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候」文。
本尊抄二十七に云く「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」文。
二には、本法所持の人なるが故に。
御義口伝上終に云く「此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず」文。
三には、法華経を学する日深く、末法の大難を忍ぶが故に。
御書には直ちに其の文無けれども、迹化に対して意得べきなり。已上、本化・迹化相対の三義なり。
一 此の四大菩薩等文。
釈尊初発心の弟子なる事を判じたもうなり。迹化・他方は或は釈尊の弟子に非ず、或は弟子なれども初発心の弟子に非ず。故に之を止むるなり。今の文の「五百塵点劫」とは初発心の事なり。
「一念も仏を・わすれず・まします」とは、久遠の本仏を忘れずして、久遠の妙法を忘れざる菩薩なり。是れ則ち迹にくだらざる菩薩にして、但本法所持の人なるが故なり。
外十六・十七に云く「此の四菩薩こそ五百塵点より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候」文。
今の文に拝し合すべし。「二門」とは本迹の二門なり。
一 召し出して授けさせ給へり文。
此の授与に二重の授与あり。一には釈尊より上行菩薩に授与す、今の御文言は是れ一の重なり。二には上行菩薩より一切衆生に授与するなり。
本尊抄に云く「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」文。
御書文段 目次