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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 06月 04日

 法華取要抄私記 八 八品は是れ能詮能釈なり。題目は所詮所釈なり。題目を以て下種とする事、本迹倶(とも)に顕然なり。


  問うて云く、次の文に「滅後を以て」等と釈するは如何。

答う、時に約すれば聞分に()って之を弁ず。像法を正機と為し、()(ぜん)と迹門と本門と三教を以て正像末の三時に配当するは是れなり。()し機に依って談ずれば少分なり。()(だつ)(とう)(だつ)相対して之を論ずれば、末法を以て正と為す。其の故は、大段は是れ末法は一向に(ほん)未有(みう)(ぜん)の機なれども、(なお)(ほん)()有善の余類あり。少分たりと雖も、彼の正像已脱の者に対して、末法当脱の機を以て(しょう)するなり。()って末法を以て正と為す云云。

問うて云く、迹門すら(なお)末法を以て正機と為す。何ぞ迹門無得道とわんや。一抄に云く「一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず」文。「捨つべし」と云う経文(これ)無し。

  答えて云く、二意有り。

一には御本意に約して一向に本門寿量品に(かぎ)るなり。

二には(ぼう)()に約して迹門を読むなり。諸御書に此の両筋あり。一概に之を論ずべからず。御書に云く「今の時は(しょう)には本門・(ぼう)には迹門なり」已上。是れ則ち末法は大判に約すれば一向に本門下種の機なれども在世下種あり。此の衆生の為に傍に之を用う。(しか)りと雖も御本意の()(つう)は一向に下種の要法なり。

問うて云く、本門を正と為すの(こころ)は如何。

答う、一には()(こく)相応の故に。二には付嘱の故に。三には機感相応の故なり。

  問う、本迹の弘通に傍正有りと雖も、既に二門(とも)に用ゆ。(あに)是れ一致に非ずや。

  答う、既に傍正を判じたまえり。勝劣あること顕然(けんねん)なり。何ぞ一致と云わんや。其の上、迹門()得道(とくどう)云えるは、在世下種の余類、末法を脱と為すの一機の為なり。全く本門下種の機には非ざるなり。(しか)れば脱の為には有得道なれども、下種の為には無得道なること分明(ふんみょう)なり。是れを以て正には本門を()(つう)し、傍には迹門を弘通する者なり。

  問うて云く、若し傍に迹門を弘むるならば、太田抄に云く「既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸(ぜんぜん)(すいび)して、権実の二機(ことごと)く尽きぬ」云云。如何(いかん)が之を()(つう)せんや。

答う、此等の御文体は(うば)って之を判じたもうが故なり。

問うて云わく、八品を是れ下種とする姿は如何(いかん)

答えて云く、八品の題目を下種と為すは、既に此の題目を八品に説きたもう間、八品は是能詮(のうせん)能釈(のうしゃく)なり。題目は所詮(しょせん)所釈なり。()って一句一偈八品を聞いて以て題目を信ず、(しか)れば則ち正宗八品たりといえども、文々句々を以て下種とするには非ざるなり。題目を以て下種とする(こと)、本迹(とも)に顕然なり。


               つづく


本書目次                         日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-06-04 16:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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