問うて云く、次の文に「滅後を以て」等と釈するは如何。
答う、時に約すれば聞分に従って之を弁ず。像法を正機と為し、爾前と迹門と本門と三教を以て正像末の三時に配当するは是れなり。若し機に依って談ずれば少分なり。已脱・当脱相対して之を論ずれば、末法を以て正と為す。其の故は、大段は是れ末法は一向に本未有善の機なれども、尚本已有善の余類あり。少分たりと雖も、彼の正像已脱の者に対して、末法当脱の機を以て正とするなり。依って末法を以て正と為す云云。
問うて云く、迹門すら尚末法を以て正機と為す。何ぞ迹門無得道と云わんや。一抄に云く「一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず」文。「捨つべし」と云う経文之無し。
答えて云く、二意有り。
一には御本意に約して一向に本門寿量品に限るなり。
二には傍意に約して迹門を読むなり。諸御書に此の両筋あり。一概に之を論ずべからず。
御書に云く「今の時は正には本門・傍には迹門なり」已上。
是れ則ち末法は大判に約すれば一向に本門下種の機なれども又在世下種あり。此の衆生の為に傍に之を用う。爾りと雖も御本意の弘通は一向に下種の要法なり。
問うて云く、本門を正と為すの意は如何。
答う、一には時尅相応の故に。二には付嘱の故に。三には機感相応の故なり。
問う、本迹の弘通に傍正有りと雖も、既に二門倶に用ゆ。豈是れ一致に非ずや。
答う、既に傍正を判じたまえり。勝劣あること顕然なり。何ぞ一致と云わんや。其の上、迹門有得道と云えるは在世下種の余類、末法を脱と為すの一機の為なり。全く本門下種の機には非ざるなり。然れば脱の為には有得道なれども、下種の為には無得道なること分明なり。是れを以て正には本門を弘通し、傍には迹門を弘通する者なり。
問うて云く、若し傍に迹門を弘むるならば、太田抄に云く「既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して、権実の二機悉く尽きぬ」云云。如何が之を会通せんや。
答う、此等の御文体は奪って之を判じたもうが故なり。
問うて云わく、八品を是れ下種とする姿は如何。
答えて云く、八品の題目を下種と為すは、既に此の題目を八品に説きたもう間、八品は是能詮能釈なり。題目は所詮所釈なり。依って一句一偈八品を聞いて以て題目を信ず、然れば則ち正宗八品たりといえども、文々句々を以て下種とするには非ざるなり。題目を以て下種とする事、本迹倶に顕然なり。
つづく
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