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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 30日

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る 故なり。是をしらざるは即ち謗法なり、と説いた【十二因縁御書】

【十二因縁御書】
■出筆時期:康元元年建長七年(1256年)三十五歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗三年後に著された書で、日蓮大聖人は弟子・信徒教化のため、法華経で説かれている十二因縁について詳しく講説なされておられます。
尚この年(康元元年)には、後に大聖人門下の中心的な強信徒となる四条金吾、工藤吉高(小松原法難で大聖人を守り殉死)、池上兄弟の兄・池上宗仲等が大聖人に帰依しております。
■ご真筆:現存しておりません。

【十二因縁御書 本文】
凡そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。一切衆生螻蟻蚊虻(ろうぎもんもう)まで生を受くる程のもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもて組み立てたる身なり。此の衆生は五陰(ごおん)和合の身なり。釈に云はく「五陰和合を名づけて衆生と為す」と。此の五陰は十二因縁なる故なり。

其の十二因縁とは、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死。此の十二因縁をば三世両重の因果と云ふ。初・八・九此の三つは煩悩なり。第二・第十此の二つは業なり。識・名色・六入・触・受・生・老死、此の七つは皆是苦なり。

十二因縁とは煩悩・業・苦の三道なり。無明・行の二つは過去の二因なり。識・名色・六入・触・受の五つは現在の五果なり。愛・取・有の三つは現在の三因なり。生・老死の二つは未来の両果なり。身に三つとは殺・盗・婬。口に四つとは悪口・両舌・妄語・綺語なり。意に三つとは貪・瞋・癡煩悩

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し、即ち法華経なりと我が身を知る故なり。是をしらざるは即ち謗法なり。「若人不信毀謗(きぼう)此経則断一切世間仏種」とは是なり。我が身より外に別に仏無く、法華経無きなり。

縁起(えんぎ)・非縁生は過去の二支、縁生・非縁起は未来の二支、縁起・縁生は中間の八支、非縁起・非縁生は無為の法なり。十二時とは、無明は過去の諸結の時なり。行は是過去の諸行の時なり。識は是相続心及び眷属の時なり。名色とは已に受生相続、未だ四種の色根を生ぜず、六入未だ具せざる時なり。胎内の五位とは、一には歌羅邏からら、二には阿浮曇(あぶどん)、三には閉尸(へいし)、四には健南(けんなん)、五には波羅奢伽(はらしゃか)。此くの如く胎外に生じて人と成る、是を衆生とするなり。

決の六に云はく「頭の円かなるは天に象(かたど)る、足の方なるは地に象る、身内の空種なるは即ち是虚空なり。腹の温かきは春夏に法(のっと)り、背の剛きは秋冬に法る。四体は四時に法る。大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法る。鼻の息の出入するは山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り開閉するは昼夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、肉は土地に法り、毛は叢林(そうりん)に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法る」と。
身の肉は土、骨の汁は水、血は火、皮は風、筋は木。人の六根は、眼は物の色を見、耳は物の声をきく、鼻は物の香をかぐ、舌は一切の物の味をしる。身は一切の寒・熱・麁(そ)・細にふれて苦痛するなり。此の五根の功能は現に目に見えしる間やすし。第六の意と知云ふ物は、一切衆生我等が身中に持ちながら都て之を知らざるなり。我が心さへ知らず見ず、況んや人の上をや。当座の人々知ろし食されんや。仏も心をば不思議と仰せられたり。況んや其の已下をや。知らざる故は、此の心は長・短・方・円の形を離れたり、青・黄・赤・白・黒の色にも非ず、言語道断心行所滅の法なり。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、語黙作々、因縁表白の喩ふべきに非ず。絵に書き作り出だすべき物にも非ず、是を習学する物にも非ず、仏より記莂(きべつ)せられたることもなし、神の託宣に承る事もなし、親・師匠の手より譲られたる事もなし。天よりふり、地より涌きたるものにも非ず。極大不思議の物なり。

かゝるくせものなるを天台・妙楽二聖人の御釈、玄文に云はく「心は幻焔(げんえん)の如し、但名字のみ有り、之を名づけて心と為す。適(たまたま)其れ有りと言はんとすれば色質(しきぜつ)を見ず。適其れ無しと言はんとすれば復慮想(また・りょそう)起こる。有無を以て思度(したく)すべからざるが故に、故に心を名づけて妙と為す。妙心軌(のっと)るべし、之を称して法と為す。
心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ふ。是を蓮華と名づく。一心、観を成ずるに由って亦転じて余心を教ふ、之を名づけて経と為す」と。

籤(せん)に云はく「有と言はゞ則ち一念都て無し。況んや十界の質像有らんや。無と言はゞ則ち復三千の慮想を起こす。況んや一界の念慮をや。此の有無を以て思ふべからざるが故に、則ち一念の心、中道なること冷然なり。故に知んぬ、心は是妙なり」と。

爰に知んぬ、我等が心は法華経なり、法華経なりと。法華経をしらざるは即ち我が身をしらざるなり。所謂、身を知らざる者あり、移宅(わたまし)に妻を忘れたる是なりと。されば仏にならざる者あり、後世の為に法華経を忘れたる者是なり。故に法華経を信ぜず謗(そし)る者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。薬王の十喩見合はすべし。玄に云はく「眼・耳・鼻・舌皆是寂静の門なり。此を離て別に寂静の門無し」と。籤に云はく「実相常住は天の甘露の如く是不死の薬なり。今妙法を釈して能く実相に通ず、故に名づけて門と為す」と。寂静とは法華経なり。甘露とは法華経なり。止の三に云はく「如来の無礙(むげ)智慧の経巻は具(つぶさ)に衆生の身中に在り。顚倒(てんどう)して之を覆ひて信ぜず見えざるなり」と。

倩(つらつら)物の心を案ずるに、一切衆生等の六根は悉く法華経の体なりけりと、能く能く目をとぢ、心をしづめてつくづく御意得候へ。心が法華経の体ならんには、五根が法華の体にてある事は疑ひ無し。心は王なり、五根は眷属なり。目に見、耳に聞く等の事は、心がみせきかせするなり。五根の振る舞ひは併ら心が計らひなり。物を見るも心が所作なれば眼も法華経なり。耳に聞くも心が計らひなれば、耳即ち法華経なり。余根以て之に同じ。死ねば随ひて五根も去る。五根の当体は死ねども其の形は滅せず。然れども心がなければ、いつか死人の物を見聞くや。譬へに合せん、法華を謗るもの亦是くの如し。我等が心法華にてあるを、而も法華を謗って心を失するは六根不具なり。法華経の心を失して爾前経立つべきや。法華を謗り不信にては、爾前諸宗等の小乗権法等は、心去りたる死骸にてこそあらめ云云。

今法華宗は法華経と云ふ我等が心を捨てざれば、死骸六根随って失せず。心即ち五根、五根即ち心なれば、心法成仏すれば色法共に成仏す。色心不二にして内外相具せり云云。

釈に云はく「蓮華の八葉は彼の八教を表はし、蓮台の唯一なるは八の一に帰するを表はす。一の中の八、八の中の一、常に一常(つね)に八、唯(ただ)一唯八、一と成り八と成る、前無く後無し」と。止に云はく「夫一心に十法界を具す、介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」と。

弘(ぐ)に云はく「一身一念法界に遍(あまね)し」と。義に云はく「三千と云ふも、法界と云ふも、法華経の異名なり」と。経に云はく「閻浮提(えんぶだい)の内に広く流布せしむ」と。閻浮とは天地なり、父母なり。又云はく「閻浮提の人の病の良薬」と。良薬は天地、父母なり。此くの如く我等衆生が身は併(しかしなが)ら法華の体にて有るを、全く法華経を他国異朝の物と思ひ、天地水火の様に余処余処に思ひ作すなり。加様に目出たく貴き身を捨て終はりて、剰(あまつさ)へ謗じて悪処に落ちんは、浅猿(あさまし)く口惜しかるべきなり。

されば信じて我が身のいみじきやうは、六の巻随喜功徳品にあり。謗じて我が身の悪しき様は八の巻普賢品にあり。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。此の経を持つ者は即ち仏身を持ちて即ち仏事を行ずるなり」云云。譬喩品に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」と。普賢経に云はく「諸仏如来真実の法の子なり、汝大乗を行じて法種を断ぜざれ」云云。

日蓮花押






by johsei1129 | 2016-05-30 20:29 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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