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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 24日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その一

【御講聞書】
■出筆時期:弘安三年(1255年)五月二十八日 日向記す。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯;日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経の講義を為し、それを日向(にこう)が筆録したのが本書となります。尚、日興上人が筆録し大聖人の裁可を得たのが【御義口伝】となります。

 日向は大聖人滅後日興上人が別当を務めた身延久遠寺の学頭に就きますが、地頭の波木井実長共々神社に参詣するなど謗法に陥り日興上人から厳しく断罪され義絶されます。他の老僧も日向の信仰を批判し、日昭と日朗とが遣り取りした書簡では、日昭から弟子を比叡山の戒壇で得度させても良いか相談を受けた際に日朗が「富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきである。身延の日向の法門は禅・念仏にも劣る」と書かれておられるとのことです。
 この日向の謗法の詳細については『小説日蓮の生涯(下)101地頭の謗法』を参照して下さい。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:京都要法寺所蔵。

【御講聞書 本文】その一

 自弘安元年三月十九日連連の御講、至同三年五月二十八日也。仍って之を記し畢(おわ)んぬ。           日向之を記す

 凡そ法華経と申すは一切衆生・皆成仏道の要法なり。されば大覚世尊は「説時・未だ至らざる故なり」と説かせ給いて・説く可き時節を待たせ給いき。例せば郭公(ほととぎす)の春をおくり、鶏鳥(にわとり)の暁を待ちて鳴くが如くなり。此れ即ち時を待つ故なり。
 されば涅槃経に云く「時を知るを以ての故に大法師と名づく」と説かれたり。今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょう・とくやく)あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち・心に念じ・口に唱え奉るべき時なり。之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経・序品第一と題したり。

一 妙法蓮華経序品第一の事
 玄旨の伝に云く「一切経の惣要とは謂く・妙法蓮華経の五字なり」又云く「一行一切行・恒(つね)に此の三昧を修す」文。云う所の三昧とは即ち法華の有相・無相の二行なり。此の道理を以て法華経を読誦せん行者は、即ち法具の一心三観なり云云。此の釈に一切経と云うは近くは華厳・阿含・方等・般若等なり。遠くは大通仏より已来(このかた)の諸経なり。本門の意は寿量品を除いて其の外の一切経なり。惣要とは天には日月・地には大王・人には神(たましい)・眼目の如くなりと云う意を以つて釈せり。此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり。一行とは妙法の一行に一切行を納めたり。法具とは題目の五字に万法を具足すと云う事なり。
 然る間・三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社・其の外・日本国中の小神・大神等、此の経の行者を守護すべしと法華経の第五巻に分明(ふんみょう)に説かれたり。影と・身と、音(こえ)と・響との如し。法華経二十八品は影の如く響の如し、題目の五字は体の如く・音(こえ)の如くなり。題目を唱え奉る音(こえ)は十方世界にとずかずと云う所なし。我等が小音なれども題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし。譬えば小音なれども貝(ばい)に入れて吹く時、遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し。一念三千の大事の法門是なり。
 かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを謗る人・何ぞ無間に堕在せざらんや。法然・弘法等の大悪知識是なり。

一 妙法
 の二字は一切衆生の色心の二法なり。一代説教の中に法の字の上に妙の字を置きたる経は一経もなし。涅槃経の題目にも大般(だいはつ)涅槃経と云いて・大の字あれども妙の字なし。但し釈籤(しゃくせん)一に云はく「大は只是れ妙なり」然れども大と妙とは不同なり。同じ大なれども華厳経の大方広仏華厳経と云える題号の大と、涅槃経の大と天地雲泥なり。華厳経の大は無得道の大なり、涅槃経の大は法華同醍醐味の大なり。然れども「然涅槃尚劣」と云う時は法華経には劣れり。此の事は涅槃経に分明に法華経に劣ると説かれたり。涅槃経に云く「法華の中の八千の声聞・記莂(きべつ)を受くることを得て大果実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」云云。此の文・分明(ふんみょう)に我と法華経に劣れりと説かせ給えり。

一 蓮華
 とは本因本果なり。此の本因本果と云うは一念三千なり。本有(ほんぬ)の因・本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。
 本因の因と云うは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云うは信心領納(りょうのう)の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり。
 日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり。本因なくしては本果有る可からず。仍て本因とは慧(え)の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く、若しは山谷曠野(せんごく・こうや)等と説けり。即ち是れ道場と見えたり。豈(あに)法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。

一 本因本果の事
 法界悉く常住不滅の為体(ていたらく)を云うなり。されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決(ぐけつ)に云く「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時・此の本理に称(かな)いて一身一念法界に遍(あまね)し」云云。此の釈分明(ふんみょう)に本因本果を釈したり。
 身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり。一念とは此の衆生の念念の作業なり。「故に成道の時・此の本理に称(かな)う」とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり。法界とは五大なり。
 所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前・蓮華化生なれば称此本理の成道なり。本理に称(かな)うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり。法華経の本理に叶うとは此の経を持(たも)ち奉るを云うなり。「若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つ」とは是なり。

一 爾前無得道の事
 此の法門は蓮華の二字より起れり。其の故は蓮華の二字を以て云うなり。三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり。
 権教に於て蓮華の沙汰無し。若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし。三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る。妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり。
 華は本因・蓮は本果なれば、華の本因を不信謗法の人、豈具足せんや。経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」云云。此の蓮華に迷う故に十界具足無し。十界具足せざれば一念三千・跡形無きなり。 
 一切の法門は蓮華の二字より起れり。一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり。深く之を案ず可し。

一 序品の事
 此の事は、教主釈尊・法華経を説き給わんとて先ず瑞相の顕れたる事を云うなり。今末法に入つて南無妙法蓮華経の顕われ給うべき瑞相は彼には百千万倍勝るべきなり。其の故は、雨は竜の大小により、蓮華は池の浅深に随つて其の色不同なるが如くなるべし。

一 品と云う事
 品とは、釈に云く義類同と云えり。此の法華経は三仏・寄合い給いて定判し給えり。三仏とは釈迦・多宝・分身是なり。此の三仏・評定してのたまわく、一切衆生皆成仏道は法華経に限りて有りと皆是真実の証明・舌相梵天の誠証(じょうしょう)・要当説真実の金言、此等を義類同して題したる品の字なり。天竺には跋渠(ばっこ)と云う、此には品と云えり。
 釈迦・多宝・分身の三仏の御口を以て指し合せ、同音に定判し給える我等衆生の成仏なり。譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同じき所をつつきあくるが如し。是れ即ち念慮の感応する故なり。今法華経の成仏も此くの如くなり。三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり。故に経に云く「従仏口生」「如従仏口」等云云。

一 如是我聞の事
 仰せに云く、如と云うは衆生の如と・仏の如と一如にして無二如なり。然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり。
 如は如を不異に名く。即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり。所詮・法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり。是を如とは云うなり。されば如は実相・是は諸法なり。又如は心法・是は色法、如は寂・是は照なり。如は一念・是は三千なり。今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり。
 惣じて如是我聞の四字より外は・今経の体全く無きなり。如と妙とは同じ事、是とは法と又同じ事なり。法華経と釈尊と我等との三、全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり。仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり。我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主(じゅ)と釈せり、聞とは名字即なり。
 如是の二字は妙法なり。阿難を始めて霊山一会(りょうぜんいちえ)の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり。仍つて我も聞くと云えり。されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり。
 所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり。我は真如法性の我なり。天台大師は同聞衆と判ぜり、同じ事を聞く衆と云うなり。同とは妙法蓮華経なり。聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一 如是の二字
 を約教の下(しも)に釈する時、文句の一に云く「又一時に四箭(せん)を接して地に堕せしめざるも・未だ敢へて捷(はや)しと称せず。鈍驢(どんろ)に策(むちう)つて跋鼈(はべつ)を駈るも尚一を得ず。何に況んや四をや」云云。
 記の一に云く「大経に云く、迦葉菩薩問うて云く云何(いかなる)か智者・念念の滅を観ずと。仏の言(のたまわ)く譬えば四人皆射術を善(よく)し・聚(あつま)つて一処に在りて・各(おのおの)一方を射るに念言すらく、我等は四の箭(や)・倶に射て倶に堕せんと。復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し。仏の言く、捷疾鬼(しょうしっき)は復是の人よりも速(は)やし。是くの如く飛行鬼(ひぎょうき)・四天王・日月神・堅疾天(けんしつてん)は展転して箭(や)よりも疾し。無常は此れに過ぎたり」と。
 此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども、更に法蓮華の理に深く叶わざるなり。一二だも義理を尽さざるなり、況んや因縁をや、何に況んや約教・観心の四をやと破し給えり。
 所詮法華経は速疾頓成(そくしつ・とんじょう)を以て本とす。我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし。爰を以て出ずる息は入る息を待たず、此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり。超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり。妙楽大師云く「若し超八の如是に非ずんば・安(いずくん)ぞ此の経の所聞と為さん」と云云。

一 耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の事
 仰せに云く、耆闍崛山とは霊鷲山(りょうじゅせん)なり。霊とは三世の諸仏の心法なり。必ず此の山に仏法を留め給う。鷲とは鳥なり。此の山の南に当つて尸陀林(しだりん)あり、死人を捨つる所なり、鷲(わし)・此の屍(しかばね)を取り食うて此の山に住むなり。さて霊鷲山とは云うなり。
 所詮今の経の心は迷悟一体と談ず。霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟りなり。鷲と云うは畜生にして迷ひなり。迷悟不二と開く中道即法性の山なり。耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり。されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり。行者豈(あに)釈迦如来に非ずや。日本国は耆闍崛山、日蓮等の類は釈迦如来なるべし。
 惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は、いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし。此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり。仏菩薩等は菩提の果なり。煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり。諸仏は法性の依地(えじ)、衆生は無明の依地なり。此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり。本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・娑婆世界なり。本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云。
 瑜伽論(ゆがろん)に云く「東方に小国有り、其の中・唯大乗の種姓のみ有り」。大乗の種姓とは法華経なり。法華経を下種として成仏すべしと云う事なり。所謂南無妙法蓮華経なり。小国とは日本国なり云云。

一 与大比丘衆の事
 仰せに云く「文句の一に云く、釈論に明す。大とは亦(また)は多と言い亦は勝と言う。遍く内外の経書を知る故に多と言う。又数一万二千に至る故に多と言う。今明かさく大道有るが故に・大用有るが故に・大知有るが故に。故に大と言う。勝とは道勝(どう・すぐ)れ、用勝(ゆう・すぐ)れ、知勝る故に勝(しょう)と言う。多とは道多く・用多く・知多し。故に多と言う」又云く「含容一心(がんよういっしん)・一切心なり。故に多と名くるなり」。
 記の一に云く「一心一切心と言うは心境倶に心にして各一切を摂す。一切三千を出でざるが故なり。具に止観の第五の文の如し。若し円心に非ざれば三千を摂せず。故に三千惣別・咸(ことごと)く空仮中(くう・け・ちゅう)なり。一文既に爾なり、他は皆此れに准ぜよ」。
 此の本末の心は心境義の一念三千を釈するなり。止観の第五の文とは「夫れ一心に十法界を具す・乃至不可思議境」の文を指すなり。心境義の一念三千とは此の与大比丘衆の大の字より釈し出だせり。
 大多勝の三字・三諦・三観なり。円頓行者・起念の当体・三諦三観にして大多勝なり。
 此の釈に惣と云うは一心の事なり、別とは三千なり。一文とは大の一字なり。今末法に入つては法華経の行者・日蓮等の類(たぐい)正(まさ)しく大多勝の修行なり。法華経の行者は釈迦如来を始め奉りて悉く大人と為して敬い奉るなり。誠に以て大曼荼羅の同共(どうぐ)の比丘衆なり。本門の事の一念三千・南無妙法蓮華経・大多勝の比丘衆なり。文文・句句・六万九千三百八十四字の字ごとに大多勝なり。人法一体にして即身成仏なり。されば釈に云く「大は是れ空の義、多は是れ仮の義、勝は是れ中の義」と。
 一人の上にも大多勝の三義・分明(ふんみょう)に具足す。大とは迹門・多とは本門・勝とは題目なり。法華経の本尊を大多勝の大曼荼羅と云うなり。是れ豈(あに)与大比丘衆に非ずや。二界・八番の雑衆・悉く法華の会座の大曼荼羅なり。
 法華経の行者は二法の情を捨てて唯妙法と信ずるを大というなり。此の題目の一心に一切心を含容するを多と云うなり。諸経・諸人に勝れたるが故に勝と云うなり。
 一切心に法界を尽す。一心とは法華経の信心なり、信心即一念三千なり云云。

一 爾時世尊の事
 仰せに云く、世尊とは釈迦如来。所詮世尊とは孝養の人を云うなり。其の故は不孝の人をば世尊とは云わず。教主釈尊こそ世尊の本にては御座候(おわしまし・そうら)え。父浄飯王・母摩耶夫人を成道せしめ給うなり。されど今経の座には父母・御座(おわしま)さざれば方便土へ法華経をば送らせ給うなり。彼土得聞(ひどとくもん)とは是なり。
 但し法華経の心は十方仏土中・唯有一乗法なり。忉利天(とうりてん)に母摩耶夫人・生じ給えり、忉利天に即したる寂光土なり、方便土に即したる寂光土なり。四土一念・皆常寂光なれば何れも法華経の説処なり。虚空会の時の説法華に、豈忉利天もるべきや、寂光土の説法華に、豈方便土もるべきや。何れも法華経の説所なれば同聞衆の人数なり云云。

一 浄飯王摩耶夫人成仏証文の事
 仰せに云く、方便品に云く「我始め道場に座して樹を観じ・亦経行して」の文是なり。又寿量品に云く「然るに我・実に成仏してより已来(このかた)」の文是なり。教主釈尊の成道の時、浄飯王も摩耶も得道するなり。本迹二門の得道の文是なり云云。
 此の文・日蓮が己心の大事なり。我始と我実との文・能く能く之を案ず可し。其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり、然る間・成仏之れ無し。今の経の時、父子の天性を定め父子一体と談ぜり。父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり。釈尊の我始坐道場の時、浄飯王・摩耶夫人も同時に成道なり。釈尊の我実成仏の時、浄飯王・摩耶夫人同時なり、始本共に同時の成道なり。
 此の法門は天台・伝教等を除いて知る人一人も之れ有る可からず。末法に入つて日蓮等の類・堅く秘す可き法門なり。譬えば蓮華の華菓の相離れざるが如くなり。
 然れば法華経の行者は男女悉く世尊に非ずや。薬王品に云く「一切衆生の中に置いて亦為(こ)れ第一なり」文。此れ即ち世尊の経文に非ずや。是真仏子なれば法王の子にして世尊第一に非ずや。

一 方便品の事
 妙法蓮華経の五字とは名体宗用教の五重玄義なり。されば止観に十章を釈せり。此の十章即ち妙法蓮華経の能釈(のうしゃく)なり。夫れとは釈名は名玄義なり、体相摂法(せっぽう)の二は体玄義なり、偏円の一は教玄義なり、方便・正観・果報の三は宗玄義なり、起教の一は用玄義なり。始めの大意の章と終はりの旨帰との二をば之を除く。此の意は止観一部の所詮は大意と旨帰とに納まれり。無明即明の大意なる故なり。無明とも即明とも分別せざるが旨帰なり。
 今妙法蓮華経の五重玄義を修行し奉れば、煩悩即菩提・生死即涅槃の開悟を得るなり。大意と旨帰とは法華の信心の事なるべし。以信得入・非己智分とは是なり。
 我等衆生の色心の二法は妙法の二字なり。無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するを大意と云うなり。大は色法の徳・意は心法の徳なり、大の字は形に訓ぜり。今日蓮等の類・南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賤等の色心、本有の妙境妙智なり。父母果縛の肉身の外(ほか)に別に三十二相・八十種好(しゅごう)の相好(そうごう)之れ無し。即身成仏とは是なり。
 然る間・大の一字に法界を悉く収むるが故に法華経を大乗と云うなり。一切の仏菩薩・聖衆・人畜・地獄等の衆生の智慧を具足し給うが故に仏意と云うなり。大乗と云うも同じ事なり。是れ即ち妙法蓮華経の具徳なり。
 されば九界の衆生の意を以て仏の意とす、一切経の心を以て法華経の意とす、於一仏乗分別説三とは是なり。かかる目出度き法華経を謗じ奉る事・三世の諸仏の御舌を切るに非ずや。
 然るに此の妙法蓮華経の具徳をば仏の智慧にてもはかりがたく、何に況んや菩薩の智力に及ぶ可けんや。之に依つて大聖塔中偈(だいしょう・たっちゅうげ)の相伝に云く、一家の本意は只一言を以て本と為す云云。此の一言とは寂照不二の一言なり。或は本末究竟等の一言とも云うなり。真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり。
 本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり。生仏(しょうぶつ)一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一 仏所成就・第一希有・難解之法・唯仏与仏(ゆぶつ・よぶつ)の事
 仰せに云く、仏とは釈尊の御事なり。成就とは法華経なり。第一は爾前の不第一に対し、希有は爾前の不希有に対し、難解之法は爾前の不難解に対したり。
 此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり。十界の衆生の語言音声・成就にして法華経なり。三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして優曇華(うどんげ)の妙文なれば第一希有なり。九界の智慧は及ばざれば難解の法なり。
 成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり。権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず。迹門には二乗成仏顕はれたり、是れ即ち成就なり。是を仏所成就とは説かれたり。されば唯仏とは釈迦、与仏とは多宝なり。多宝涌現なければ与仏とは云いがたし。然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり。
 所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし。其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり。与仏の二字を重ねて方便品の末に至つて若遇余仏(にゃくぐ・よぶつ)と説けり。釈には「深く円理を覚る、之れを名けて仏と為す」と釈せり。是れ即ち与仏と云うは法華経の行者・男女の事なり。唯我一人の釈尊に与(くみ)し上(たてまつ)る仏なり。此の二仏寄り合いて乃能究尽(ないのう・くじん)する所の諸法実相の法体なり。
 されば十如是と云うは十界なり。十界即十如是なり。十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一 十如是の事
 仰せに云く、此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり。されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く・実相に於て染浄(せんじょう)無し。之れに依つて天台大師は、止観の十章も此の十如是より釈出せり。然る間・十如是に過ぎたる法門更に以て之れ無し。爰を以て和尚授けて云く「十大章は是れ全く十如是。若し大意を覚る時、性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し」と。十如是を十大章に習う事は性如是は大意・相如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法(しょうほう)・作如是は偏円・縁如是は方便・因如是は正観・果報如是は果報・本末究竟如是は旨帰なり。此の中に起教の章は化他利物・果上化用(けた・りもつ・かじょう・けゆう)と云うなり云云。





by johsei1129 | 2019-11-24 19:35 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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