一 成仏の印文とは。
「印」とは即ち是れ判なり。又是れ決定の義なり。世の証文の如し。即ち判形を以て用いて信と為すなり。譬えば伝国の玉璽の如し。(命を天に受く。既に寿永く昌んなり。)
御書三十五・三十四に「又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき、おこがましき事とはおぼすとも其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ乃至又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず南無妙法蓮華経」と云云。
諸門流の曼荼羅には日蓮聖人の判なし云云、云云。相伝有り。
当門流の弟子檀那は、御判慥かにすわりたる手続の文書、本門の本尊を受持するが故に、決定して成仏すること疑無し。
「我が滅度の後に於て(乃至)決定して疑い有ること無けん」とは是れなり。「応に斯の経を受持すべし」とは、応に本尊を受持すべしとなり。「是の人(乃至)決定」とは即ち是れ成仏の印文なり。蟆の事。
一 冥途にてはともしびとなり。
荘厳論に云く「命尽き終る時、大黒闇を見れば深岸に墜するが如く、独り広野を逝くに判侶有ること無し」文。
讃歎抄十九に云く「正しく魂去る時、目に黒闇を見て高き処より底へ墜ち入るが如し。唯独り渺々たる広き野原に迷うなり。其の時の有様思いやるこそ心細く悲しけれ」云云。
止七四十七に云く「聚斂未だ足らざるに溘然として長く往きぬ。所有の産貨徒に他の有と為す。冥々として独り行く、誰か是非を訪わん」等云云。
牛頭決の初めに云く「所決の法門七百余科、皆是れ生死の野を越ゆる牢強の目足なり」と。
和泉式部云く「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山端の月」。
書写山の聖空の事。和語記。
時に此の妙法曼陀羅、大灯明と成るなり。闇に灯を得たるが如しとは是れなり。
一 死出の山。
讃歎抄に云く「心ならず行く程に死出の山に至る。此の山高くして嶮し。獄卒に駆り催されて泣く泣く山路にかかる。岩のかど剣の如くなれば歩まんとすれども歩まれず。此の山遠き八百里、嶮しきこと壁に向えるが如し。嶺より下す嵐はげしく膚を徹し骨髄に入る」(新定五四)等云云。
太宰の高遠、夢の告げに云く
古郷へ行く人もがな告げやらん
しらぬ山路に独り迷うと
千載集、鳥羽院
常よりもむつまじき哉時鳥
死出の山路の友とおもえば
生まるる御子を失い給いければ、伊勢
死出の山越えてやきつる時鳥
恋しき人の上かたらなん
水戸光圀公
時鳥なれもひとりはさびしきに
われをいざなえ死出の旅路に
つづく
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