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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 11日

法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、と説いた【一念三千法門】

【一念三千法門】   
■出筆時期:正嘉二年(1258) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つで、法華経方便品第二でとかれた「一念三千」を末法の法華経の行者の立場でわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【一念三千法門 本文】

 法華経の余経に勝れたる事何事ぞ。此の経に一心三観・一念三千と云う事あり。薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ、此の法門を覚り給いしかども、先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども、此の一念三千の法門をば談じ給はず、百界千如の法門計りなり。

 御年五十七の夏四月の比(ころ)・刑州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり。上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり。五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て、夫れ一心に具す等と云云。是より二百年後に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称(かなう)て一身一念法界に遍(あまね)し」と云云。
 
 此の一念三千・一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり。文の心は百界千如三千世間云云。さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす。是れ僻事(ひがごと)にて二義かけたり。天台南岳の御義を知らざる故なり。

 されば当宗には天台の所釈の如く三遍読(よむ)に功徳まさる。
 第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ。如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり。是を読み観ずる時は我が身・即報身如来なり。八万四千又は般若とも申す。
 第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり、是れ皆仮なり。相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり。是を読み観ずる時は我が身・即応身如来なり。又は解脱とも申す。
 第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり。是を読み観ずる時は我が身・即法身如来なり、又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す。
 
 此の三を法報応の三身とも、空仮中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。此の三身如来・全く外になし。我が身即三徳究竟(くきょう)の体にて三身即一身の本覚の仏なり。是をしるを如来とも・聖人とも・悟りとも云う。知らざるを凡夫とも・衆生とも・迷ひとも申す。

 十界の衆生・各互(かくぐ)に十界を具足す合すれば百界なり。百界に各各十如を具すれば千如なり。此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり。百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり。千如は総て空の義なれば空諦の一なり。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。
 法門多しと雖も但三諦なり。此の三諦を三身如来とも三徳究竟(くきょう)とも申すなり。始の三如是は本覚の如来なり。終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり。

 本と申すは仏性、末と申すは未顕の仏、九界の名なり。究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり。
 始の三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が所生の子なり。

 止の一に云く「止は則ち仏の母・観は即ち仏の父なり」と云云。譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ、我が蔵に宝のある事を知らず・かつへ死し・こごへ死す。或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出だすが如し。九人は終に知らず。然るに或は教えられて食し・或はくくめられて食するが如し。弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す。聞かざる者は本末究竟等も徒(いたず)らか。子なれども親にまさる事多し。重華(ちょうか)は・かたくなはしき父を敬いて賢人の名を得たり、沛公は帝王と成つて後も其の父を拝す。其の敬われし父をば全く王といはず、敬いし子をば王と仰ぐが如し。其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり。凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず。委しき義を知らざる人、毘盧(びる)の頂上をふむなんど悪口す。大なる僻事(ひがごと)なり。

 一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり。委しく申すに及ばず候。此の三観を心得すまし成就したる処を華厳経に三界唯一心と云云。天台は諸水入海とのぶ。仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云うなり。平等と書いては・おしなべて・と読む。此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無し。法華経に遇わざれば争でか成仏す可きや。
 余経には六界八界より十界を明せどもさらに具(ぐ)を明かさず。法華経は念念に一心三観・一念三千の謂(いわれ)を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され、無明の雲晴れて法性の月明かに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身・煩悩具縛(ぐばく)の身、即ち本有常住の如来となるべし。此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す。此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり。されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり。此の時は十方世界・皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀・薬師等の浄土とは云わん。是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふ。
 さては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば、一念三千の観念も・一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり。妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり。天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵。三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり。さて此の妙法蓮華経を唱うる時、心中の本覚の仏顕はる。我等が身と心をば蔵に譬へ、妙の一字を印に譬へたり。天台の御釈に「秘密の奥蔵(おうぞう)を発(ひら)く、之を称して妙と為す。権実の正軌を示す、故に号して法と為す。久遠の本果を指す、之を喩うるに蓮を以てす。不二の円道に会す。之を譬うるに華を以てす。声仏事を為す。之を称して経と為す」と釈し給う。又「妙とは不可思議の法を褒美するなり。又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云。
 経の題目を唱うると観念と一なる事・心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし。されども天台止の二に而於説黙(にお・せつもく)と云へり。説とは経・黙とは観念なり。又四教義の一に云く「但功の唐捐(とうえん)ならざるのみに非ず、亦能く理に契(あ)うの要なるをや」と云云。天台大師と申すは薬王菩薩なり。此の大師の説而観而と釈し給ふ。元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり。四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす。
 法華経に法譬(ほっぴ)・因縁と云う事あり。法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む。我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり。されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と。広大と申すは残らず引導し給うを申すなり。仮使(たとい)釈尊一人・本懐と宣べ給うとも、等覚以下は仰いで此の経を信ず可し。況んや諸仏出世の本懐なり。禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種の一面なり。一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば、題目に十如是を置くべき処に、題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず。
 又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば又捨られたる円覚経等の文を引かるる上は実経の文に於て御綺(おいろえ)に及ぶべからず候。智者は読誦に観念をも並ぶべし、愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し。此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり。是を教え給ふ仏の御詞(みことば)なり。

 無始より以来、我が身中の心性に迷て生死を流転せし身、今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕はれて、現世に其の内証成仏するを即身成仏と申す。死すれば光を放つ。是れ外用の成仏と申す。来世得作仏とは是なり。
 略挙経題(りゃっこ・きょうだい)・玄収一部とて一遍は一部云云。妙法蓮華経と唱うる時、心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時、即身成仏す。縦ひ信ぜざれども種と成り、熟と成り、必ず之に依て成仏す。妙楽大師の云く「若は取、若は捨、耳に経て縁と成る。或いは順、或いは違、終(つ)いに斯れに因つて脱す」と云云。日蓮云く若取・若捨・或順・或違の文肝に銘ずる詞なり。法華経に「若有聞法者」等と説れたるは是か。既に聞く者と説れたり、観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし。
 只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり。此の十界は一念より事起り十界の衆生は出で来たりけり。此の十如是と云ふは妙法蓮華経にて有けり。此の娑婆世界は耳根得道の国なり。以前に申す如く当知身土と云云。一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂(いわれ)を明(あかす)が故に、是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり。一切衆生と申すは草木瓦礫(がりゃく)も一切衆生の内なるか 有情非情 。抑(そもそも)草木は何ぞ。金錍論(こんぺいろん)に云く「一草一木・一礫(りゃく)一塵(じん)、各一仏性・各一因果・具足縁了」等と云云。
 法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆(けんだっぱ)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜せん者は、我皆阿耨多羅三藐(あのくたら・さんみゃく)三菩提の記を与え授く」と云云。非人とは総じて人界の外・一切有情界とて心あるものなり。況んや人界をや。

 法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し。譬えば春夏田を作るに早晩(わせ・おく)あれども一年の中には必ず之を納む。法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す。
  玄の一に云く「上中下根、皆記べつ(莂)を与う」と云云。観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり。況や教外別伝の坐禅をや。
 法師品に云く「薬王、多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し・読誦し・書持し・供養すること得ること能わずんば当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず。若し是の経典を聞くこと得ること有らば乃(すなわ)ち能善(よく)菩薩の道を行ずるなり」と云云。観心計りにて成仏すべくんば、争(いかで)か見聞・読誦(けんもんどくじゅ)と云わんや。

 此の経は専ら聞を以て本と為す。凡(およ)そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提(せんだい)を簡(えら)ばず。故に皆成仏道(かいじょう・ぶつどう)とも云ひ又平等大慧(びょうどう・だいえ)とも云う。善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。
 義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ。「我即歓喜・諸仏亦然(やくねん)」云云。百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず、蔵に宝を持てども開く事をしらずしてかつ(飢)へ、懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し。
 如意宝珠と云う玉は、五百弟子品の此の経の徳も又此くの如く、観心を並べて読めば申すに及ばず。観念せずと雖も始に申しつるごとく「
所謂諸法・如是相如」云云と読む時は、如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相・性・体・力、其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり。
 「所謂諸法・如是相」云云とよめば、是れ仮の義なれば我が此の身・先業に依つて受けたる相性体力云云。其の具したる塵沙(じんじゃ)の惑・悉(ことごと)く即身応身如来なり。
 「所謂諸法・如是」と読む時は、是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相・性等云云。其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く。
 此の十如是、三転によまるる
事、三身即一身・一身即三身の義なり。三に分るれども一なり、一に定まれども三なり。


by johsei1129 | 2016-05-11 23:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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