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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 07日

鎌倉時代の全ての宗派[天台・禅・華厳・法相・三論・俱舎・成実・律・真言・念仏]の破析の手法を御指南なされた書【諸宗問答抄】

[諸宗問答抄】
■出筆時期:建長七年(1255) 三十四歳御作
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は弟子・信徒が他諸宗派との法論に望むに際し。相手方の教義の破折(はしゃく)の手法を簡潔に説かれた指導書として認められたと思われます。
 破折は当時存在していた全ての宗派(天台・禅・華厳・法相・三論・俱舎・成実・律・真言・念仏)を対象としておりますが、特に本書で大聖人は自らの宗派を「法華宗」と記され、最初に天台宗を取り上げ自ら立宗された「法華宗」の法門との違いを詳細に記されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日代筆(西山本門寺蔵)

【諸宗問答抄 本文】

 問うて云く、抑(そもそも)法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の御釈をば御用い候や如何。
 答て云く、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候。
 問て云く、何を明鏡として立てられ候ぞや。彼の御釈共には爾前権教を簡(えら)び捨てらる事候はず。随つて或は「初後の仏慧(ぶって)・円頓の義斉(ひと)し」とも或は「此の妙・彼の妙、妙の義殊なること無し」とも釈せられて華厳と法華との仏慧(ぶって)は、同じ仏慧にて異なること無しと釈せられ候。通教・別教の仏慧も法華と同じと見えて候。何を以て偏(ひとえ)に法華勝れたりとは仰せられ候や。意得ず候如何。
 答て云く、天台の御釈を引かれ候は、定(さだめ)て天台宗にて御坐候らん。然るに天台の御釈には教道・証道とて二筋を以て六十巻を造られて候。教道は即ち教相の法門にて候。証道は即(すなわち)内証の悟りの方にて候。只今引れ候釈の文共は教証の二道の中には何れの文と御得意候て引かれ候ぞや。若し教門の御釈にて候わば教相には三種の教相を立て爾前法華を釈して勝劣を判ぜられ候。
 先づ三種の教相と申すは何にて候ぞやと之を尋ぬ可し。若し三種の教相と申すは一には根性の融不融の相・二には化導(けどう)の始終不始終の相・三には師弟の遠近不遠近(おんごん・ふおんごん)の相なりと答へば、さては只今引かれ候御釈は何れの教相の下にて引かれ候やと尋ぬ可きなり。若し根性の融不融の下にて釈せらると答へば又押し返して問う可し。根性の融不融の下には約教・約部とて二の法門あり何れぞと尋ぬ可し。若し約教の下と答へば又問う可し。約教・約部に付いて与奪の二の釈候。只今の釈は与の釈なるか奪の釈なるかと之を尋ぬ可し。若し約教・約部をも与奪をも弁えずと云わばさては・さては天台宗の法門は堅固に無沙汰にて候けり。
 尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を宣られたり。若し教相に闇くして法華の法門を云ん者は「法華経を讃(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す」とて法華の心を殺すと云う事にて候。其の上「若し余経を弘むるに教相を明らめざるも義に於て傷(やぶ)ること無し。若し法華を弘むるに教相を明さざれば文義闕(か)くること有り」と釈せられて、殊更(ことさら)教相を本として天台の法門は建立せられ候。
 仰せられ候如く次第も無く、偏円をも簡(えら)ばず、邪正も選ばず法門申さん者をば信受せざれと天台堅く誡(いま)しめられ候なり。是程に知食(しろしめ)さず候けるに中々・天台の御釈を引かれ候事・浅ましき御事なりと責む可きなり。
 但し天台の教相を三種に立てらるる中に、根性の融不融の相の下にて相待妙・絶待妙とて二妙を立て候。相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候。
 約教の時は一代の教を蔵通別円の四教に分つて、之に付いて勝劣を判ずる時は「前の三を麤(そ)と為し・後の一を妙と為す」とは判ぜられて、蔵通別の三教をば麤教と嫌ひ、後の一教をば妙法と選取(せんしゅ)せられ候へども、此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し、且く華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等(ひとし)から令(し)めて只今の「初後の仏慧・円頓の義斉し」等の与の釈を作られ候なり。
 然りと雖も約部の時は一代の教を五時に分つて五味に配し、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ「前の四味を麤と為し・後の一を妙と為す」と判じて奪の釈を作られ候なり。然れば奪の釈に云く「細人(さいにん)・麤人(そにん)二倶(とも)に過(とが)を犯し、過の辺に従って説いて倶に麤人と名ずく」と。
 此釈の意は華厳部にも別円二教を説かれて候へば円の方は仏慧と云わるるなり。方等部にも蔵通別円の四教を説れたれば円の方は又仏慧なり。般若部にも通別円の後三教を説いて候へば其れも円の方は仏慧なり。然りと雖も華厳は別教と申すえせ物をつれて説れたる間、わるき物つれたる仏慧なりとて簡(きら)わるるなり。方等部の円も前三教のえせ物をつれたる仏慧なり。般若部の円も前二麤(そ)のえせ物をつれたる仏慧なり。然る間仏慧の名は同と雖も過(とが)の辺に従つて麤と云われて・わるき円教の仏慧と下され候なり。
 之に依て四教にても真実の勝劣を判ずる時は、一往は三蔵を名て小乗と為し、再往は三教を名て小乗と為すと釈して、一往の時は二百五十戒等の阿含三蔵教の法門を総じて小乗の法と簡い捨てらるれども、再往の釈の時は三蔵教と大乗と云いつる通教と別教との三教皆小乗の法と本朝の智証大師も法華論の記と申す文を作つて判釈せられて候なり。

 次に絶待妙と申すは開会(かいえ)の法門にて候なり。此の時は爾前権教とて嫌ひ捨てらるる所の教を皆法華の大海におさめ入るるなり。随つて法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌わるる者無きなり。皆法華の大海の不可思議の徳として南無妙法蓮華経と云う一味にたたきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出す可き道理曾(かつ)て無きなり。随つて釈に云く「諸水入海・同一鹹味(かんみ)・諸智入如実智・失本名字」等と釈して、本の名字を一言も呼び顕す可らずと釈せられて候なり。
 世間の人・天台宗は開会の後は相待妙の時、斥(きら)い捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱うるも又諸仏・諸菩薩の名言を唱うるも、皆是法華の妙体にて有るなり。大海に入らざる程こそ各別の思なりけれ。大海に入つて後に見れば日来よしわるしと嫌ひ用ひけるは大僻見(だいびゃっけん)にて有りけり。嫌はるる諸流も用ひらるる冷水も源はただ大海より出でたる一水にて有りけり。然れば何の水と呼びたりとてもただ大海の一水に於て別別の名言をよびたるにてこそあれ、各別各別の物と思うてよぶにこそ科はあれ、只大海の一水と思うて何れをも心に任せて有縁に従つて唱え持つに苦しかる可からずとて、念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱うるなり。
 今云う此の義は与えて云う時はさも有る可きかと覚れども、奪つて云う時は随分堕地獄の義にて有るなり。其の故は縦ひ一人此くの如く意得・何れをも持ち唱るとても、万人此の心根を得ざる時は只例の偏見・偏情にて持ち唱えれば、一人成仏するとも万人は皆地獄に堕す可き邪見の悪義なり。爾前に立てる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは皆是(これ)偏見・偏情によりて「邪見の稠林(ちゅうりん)、若(も)しは有、若しは無等に入り」の権教なり。
 然れば此等の名言を以て持ち唱へ此等の所詮の理を観ずれば、偏に心得たるも心得ざるも皆大地獄に堕つべし。心得たりとて唱へ持ちたらん者は牛蹄(跡)に大海を納めたる者の如し。是僻見(びゃっけん)の者なり。何ぞ三悪道を免がれん。又心得ざる者の唱へ持たんは本迷惑の者なれば、邪見権教の執心によつて無間大城に入らん事疑い無き者なり。開会の後も麤教(そきょう)とて嫌い捨てし悪法をば名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて交ゆべからずと見えて候。弘決に云く「相待・絶待倶に須く悪を離るべし。円に著する尚悪なり、況んや復余をや」云云。文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし。円に著する尚悪し、況んや復余の法をやと云う文なり。
 円と云うは満足の義なり、余と云うは闕減(けつげん)の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと嫌ふ。況んや復十界平等に成仏せざるの悪法の闕(かけ)たるを以て執著をなして、朝夕・受持・読誦・解説・書写せんをや。設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも、爾前の円は法華の一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり。体内の権を体外に取出して且(しばら)く「一仏乗に於て分別して三と説く」とする時、権に於て円の名を付て三乗の中の円教と云われたるなり。
 之に依りて古(いにし)へも金杖の譬を以て三乗にあてて沙汰する事あり。譬へば金の杖を三に打ちをりて一づつ三乗の機根に与へて何れも皆金なり。然れば何ぞ同じ金に於て差別の思をなして勝劣を判ぜんやと談合したり。此はうち聞く所はさもやと覚えたれども悪(あし)く学者の得心たるなり。今云う此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を仏三根にあてて体外に三度うちふり給へる其の影を機根が見付けずして、皆真実の思を成して己が見に任せたるなり。其の真実には金杖を打折りて三になしたる事が有らばこそ今の譬は合譬とはならめ。仏は権の金杖を折らずして三度ふり給へるを機根ありて三に成りたりと執著し得心たる。返す返す不得心の大邪見なり大邪見なり。三度振りたるも法華の体内の権の功徳を体外の三根に配して三度振りたるにてこそ有れ。全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば本の体内の権と云われて全く体内の円とは成らざるなり。此の心を以て体内・体外の権実の法門をば得意弁ふべき者なり。

 次に禅宗の法門は、或は教外別伝・不立文字と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、修多羅(しゅたら)の教は月をさす指の如しとも云ひ、或は即身即仏とも云つて文字をも立てず・仏祖にも依らず・教法をも修学せず・画像木像をも信用せずと云うなり。
 反詰(はんきつ)して云く、仏祖不伝にて候はば、何ぞ月氏の二十八祖・東土の六祖とて相伝せられ候や。其の上・迦葉尊者は何ぞ一枝の花房を釈尊より授けられ・微笑して心の一法を霊山にして伝えたりとは自称するや。又祖師無用ならば何ぞ達磨(だるま)大師を本尊とするや。又修多羅の法・無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経(しゅりょうごんきょう)・金剛経・円覚経等を或は談し・或は読誦するや。又仏菩薩を信用せずんば何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱うるやと責む可きなり。
 次に聞き知らざる言を以て種種申し狂はば云う可し。凡そ機には上中下の三根あり。随つて法門も三根に与へて説事(とくこと)なり。禅宗の法門にも理致・機関・向上として三根に配(あて)て法門を示され候なり。御辺は某が機をば三根の中には何れと得意て聞知せざる法門を仰せられ候ぞや。又理致の分か・機関の分か・向上の分に候かと責む可きなり。理致と云うは下根に道理を云いきかせて禅の法門を知らする名目なり。機関とは中根には何なるか本来の面目と問へば、庭前(ていぜん)の柏樹子(はくじゅし)なんど答えたる様の言づかひをして禅法を示す様なり。向上と云うは上根の者の事なり。此の機は祖師よりも伝えず・仏よりも伝えず・我として禅の法門を悟る機なり。迦葉・霊山微笑の花に依って心の一法を得たりと云う時に、是れ尚・中根の機なり。
 所詮・禅の法門と云う事は迦葉一枝の花房を得しより已来(このかた)出来せる法門なり。抑(そもそ)も伝えし時の花房は木の花か・草の花か、五色の中には何様なる色の花ぞや又花の葉は何重の葉ぞや・委細に之を尋ぬ可きなり。此の花をありのままに云い出したる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知る可きなり。設ひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶う可からず。如何となれば法華経を信ぜざるが故なり。此の心は法華経の方便品の末・長行に委しく見えたり。委(くわしく)は引て拝見し奉る可きなり。
 次に禅の法門何としても物に著する所を離れよと教えたる法門にて有るなり。さと云へば其れも情なり、かうと云うも其れも情なりと、あなた・こなたへ・すべりとどまらぬ法門にて候なり。夫れを責む可き様は他人の情に著したらん計りをば沙汰して、己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり。云うべき様は御辺は人の情計りをば責むれども、御辺・情を情と執したる情をば、など離れ得ぬぞと反詰すべきなり。
 凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり。汝・仏祖不伝と云つて仏祖よりも伝えずとなのらば、さては禅法は天魔の伝うる所の法門なり如何。然る間、汝断常の二見を出でず、無間地獄に堕せん事疑ひ無しと云つて、何度もかれが云う言にてややもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云つて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間・暗証の者とは云うなり。都て理におれざるなり。譬えば行く水にかずかくが如し。

 次に即身即仏とは即身即仏なる道理を立てよと責む可し。其の道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なりと責む可し。但即身即仏と云う名目を聞くに天台法華宗の即身成仏の名目つかひを盗み取りて禅宗の家につかふと覚えたり。然れば法華に立つる様なる即身即仏なるか如何(いかん)とせめよ。若し其の義無く押して名目をつかはば、つかはるる語は無障礙(むしょうげ)の法なり。譬えば民の身として国王と名乗らん者の如くなり。如何に国王と云うとも言には障(さわ)り無し。己が舌の和(やわ)らかなるままに云うとも其の身は即ち土民の卑しく嫌われたる身なり。又瓦礫(がりゃく)を玉と云う者の如し。石瓦を玉と云いたりとも曾て石は玉にならず。汝が云う所の即身即仏の名目も此くの如く有名無実なり。不便(ふびん)なり不便なり。

 次に不立文字と云う、所詮文字と云う事は何なるものと得心(こころえ)此くの如く立てられ候や。文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質(すがた)なり。汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず。汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり。さてと云うも・かうと云うも・有と無との二見をば離れず。無と云わば無の見なりとせめよと。有と云わば有の見なりとせめよ。何れも何れも叶わざる事なり。

 次に修多羅の教は月をさす指の如しと云うは、月を見て後は徒(いたずら)者と云う義なるか。若(もし)其義にて候わば御辺の親も徒者と云う義か。又師匠は弟子の為に徒者か又大地は徒者か又天は徒者か。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習い取るまでこそ用なれ、習い取つて後は無用なり。夫れ天は雨露を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり。大地は草木を出生せんが為なり草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し。是を世俗の者の譬に喉(のど)過ぬればあつさわすれ、病愈(い)えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違わず相似たり。
 所詮修多羅と云うも文字なり。文字は是れ三世諸仏の気命(き・いのち)なりと天台釈し給へり。天台は震旦(しんたん)・禅宗の祖師の中に入れたり。何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心なり、凡そ一切衆生の三世不断の色心なり。何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字と云うや。是れ昔し移宅(わたまし)しけるに我が妻を忘れたる者の如し。真実の禅法をば何としてか知るべき。哀れなる禅の法門かなと責む可し。

 次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門、いかに花をさかせても申しやすく返事すべき方は能能いはせて後、南都の帰伏状を唯読みきかす可きなり。既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に奏し奉る。仍て彼(かの)帰伏状を山門に納められぬ。其の外内裏(だいり)にも記せられたり。諸道の家家にも記し留めて今にあり。其より已来(このかた)・華厳宗等の六宗の法門・末法の今に至るまで一度も頭をさし出ださず。何ぞ唯今・事新く捨られたる所の権教・無得道の法にをいて真実の思をなし、此くの如く仰せられ候ぞや心得られずとせむべし。

 次に真言宗の法門は先ず真言三部経は大日如来の説か・釈迦如来の説かと尋ね定めて、釈迦の説と言はば釈尊・五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり。其の中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと之を尋ぬ可し。三説の中には・いづくにこそ・おさまりたりと云はば、例の法門にてたやすかるべき問答なり。若(もし)法華と同時の説なり義理も法華と同じと云はば、法華は是純円一実の教にて曾て方便を交へて説く事なし。大日経等は四教を含用(がんゆう)したる経なり。何ぞ時も同じ・義理も同じと云わんや、謬(あやま)りなりとせめよ。次に大日如来の説法と云はば、大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委しく沙汰し問うべし。一句一偈も大日の父母なし・説所なし・生死の所なし・有名無実の大日如来なり。然る間殊に法門せめやすかるべきなり。若(もし)法門の所詮の理を云はば、教主の有無を定めて説教の得不得をば極む可き事なり。
 設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に虚妄有り法華の極理を盗み取りて事密真言とか立てられてあるやらん不審なり。之に依りて法の所談は教主の有無に随って沙汰有る可きなりと責む可きなり。次に大日如来は法身と云はば法華よりは未顕真実と嫌い捨てられたる爾前権教にも法身如来と説たり。何ぞ不思議なるべきやと云う可きなり。若(もし)無始無終の由を云て・いみじき由を立て申さば、必ず大日如来に限らず我等・一切衆生・螻蟻蟁蝱(ろうぎ・もんもう)等に至るまでみな無始無終の色心なり。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり。汝外道に同ず如何と云う可きなり。

 次に念仏は是(これ)浄土宗所用の義なり。此れ又権教の中の権教なり。譬えば夢の中の夢の如し。有名(うみょう)無実にして其の実無きなり。一切衆生願ひて所詮なし。然れば云う所の仏も有為(うい)無常の阿弥陀仏なり。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば本朝の根本大師の御釈に云く「有為の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前の実仏」と釈して阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ捨てをかれ候なり。既に憑(たの)む所の阿弥陀仏・有名無実にして名のみ有つて其の体なからんには・往生す可き道理をば委しく須弥山の如く高く立て・大海の如くに深く云(いう)とも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はば、明文ありとも未顕真実の文なり。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて何れの経・教・論・釈にか成仏の明文無らんや。然れども権教の明文なる時は汝等が所執の拙きにてこそあれ、経論に無き僻事(ひがごと)なり。何れも法門の道理を宣べ厳(かざ)り依経(えきょう)を立てたりとも、夢中の権果にて無用の義に成る可きなり。返す返す。




by johsei1129 | 2016-05-07 22:37 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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