第六 本門の題目を明かす
夫れ本門の題目とは即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊、唯此の事に在り。豈池に臨んで魚を観、肯て網を結ばず、糧を裹みて足を束ね、安座して行かざるべけんや。故に宜しく妙行を励むべき者なり。
当に知るべし、行に始終有り。謂く、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那の始終、一念の因果なり。妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首」等云云。譬喩を以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光に趣くなり。天台云く「智目行足をもって清涼池に到る」等云云。
当体義抄に云く「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。
当流深秘の血脈抄に云く「宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由って口唱に本果の究竟を得」等云云。
甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止唱題のみならんや。若し他流の輩は口に妙法を唱うと雖も只是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
法蓮抄に云く「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し」等云云。
何に況んや本迹一致の大僻見、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間を免れん。悲しむべし、悲しむべし。
つづく
目 次