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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 25日

法華取要抄文段 三二  此の本尊を受持する則(とき)は、祈りとして叶わざることなく、福として来らざることなく、罪として滅せざることなく、理として顕れざることなし


 問う、其の文を見ると雖も未だ其の義を()せず、願わくは大旨(たいし)を示せ。(われ)深く之を信ぜん。

答う、()れ法は既に本来(ほう)()として相即し、微妙(みみょう)難見なり。是れ法体(ほったい)の真秘と名づくるなり。此の法体の真秘を()(ぜん)の諸経の中に秘して説かず。是れを在昔の隠秘と名づくるなり。今、(こん)(きょう)の中に(きた)って()の在昔の隠秘を開き、法体の真秘を顕す。故に開顕の真秘と名づくるなり。(たと)えば本来の月、雲の(おお)う所と()に、(いま)雲を払って本来の月を見るが如し。伝教大師釈して云く「一仏乗とは根本法華経なり。分別説三とは隠密おんみつ法華経なり。ゆい一乗とは顕説法華経なり。妙法のほかさらに一句の余経無し」と云云。妙楽大師云く「法すでもと妙なり。なるは物の情にる。故に知んぬ、ただ其の情を開せば、理おのずから本をおおう」等云云。若し此の三義をあきらめば、法華開顕の大旨はたなごころに在り。いわんまた方便の題号、得てら知るべし。権実相対、本迹相対、しゅだつ相対なり云云。

  問う、若し(しか)らば今の秘法の三義は如何。

  答う、若し権実・本迹を(りょう)せば、今文の秘法の三義、自ら知るべきなり。

  問う、()如何。

  答う、略して其の相を示さん。

一には法体の真秘。
 謂く三箇の法体は本来(ほう)()として微妙難見の大法なり。是れを法体の真秘と名づく。天台云く「(ほん)(ごく)法身は()(みょう)深遠(じんのん)なり」云云。経に云く「(じん)(じん)微妙の法は見ること難く、(はか)るべきこと難し」云云。

宗祖云く「教主釈尊の一大事の秘法」等云云。

二には文上の隠秘(おんぴ)
 開目抄に云く「寿量品の文の底に秘し沈め給へり」云云。

故に知んぬ、文上の寿量品には教主釈尊、(なお)秘して説かざることを。故に文上の隠秘と名づくるなり。

  三には文底の真秘。謂く、内証の寿量品に於て顕露(けんろ)彰灼(しょうしゃく)に三箇の法を説き顕す。故に文底の真秘と名づくるなり。妙楽云く「顕露彰灼の故に真秘と云う」云云。

  宗祖云く「最大深秘の大法経文の(おもて)に顕然なり」(取意)等是れなり。

  当に知るべし、法体(ほったい)の真秘は本来の月の如し。文上の隠秘は雲に(おお)わるるが如し。文底の真秘は雲を払って月を見るが如し。「雲晴れて後の光と思うなよ (もと)より空に有明(ありあけ)の月」等云云。故に今、文底の行者は久遠(くおん)元初(がんじょ)の月を見るなり。(まさ)に知るべし、久遠は今に在り、今は即ち久遠なり云云。

  問う、諸抄の中に(あるい)は「一大秘法」と云い、或は「三大秘法」と云い、或は「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」と云い、或は「法華経の題目を(もっ)て本尊とすべし」と云い、或は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と云う。諸文一(じゅん)ならず、如何(いかん)之を消釈せんや。

  答う、此の事を知らんと欲せば(すべから)く開合を了すべし。(けだ)し一大秘法と云うは即ち是れ本門の本尊なり。此の本尊所住の(ところ)を本門の戒壇と名づけ、此の本尊を信じて妙法を唱うるを本門の題目と名づく。故に(わか)ちて三箇の秘法とするなり。

又本尊に(にん)有り、法有り、戒壇に()有り、理有り。理は謂く、義理なり。題目に信、行有り。故に開して六義と成す。此の六義、散じて一代五十年の説法と成り、又蓮祖一期(いちご)弘法(ぐほう)と成る。例せば高僧伝に「一心とは万法の総体、分ちて戒定慧とり、開いて六度とり、散じて万行と為る」と云うが如し。これを合するときは釈尊一代の説法、日蓮一期の弘法はただ六義と成る。此の六義を合する則は但三箇の秘法と成る。此の三箇を合する則はただ一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に此の本門の本尊をまた「三大秘法総在の御本尊」と名づくるなり。

()此の開合の意を得ば、諸抄の文意(しょう)(ぜん)として()ゆるべし。然れば則ち釈尊一代五十年の説法の功徳及以(および)蓮祖一期の弘法(ぐほう)の功徳、皆(ことごと)く本門の本尊に結帰するなり。故に本尊の功徳無量無辺にし、心の及ぶ所に非ず、言の()ぶる所に非ず。故に此の本尊を受持するときは、祈りとして叶わざること無く、福としてきたらざること無く、罪として滅せざること無く、理として顕れざること無し。故に此の本尊信受のともがらただ受持の一行のみにしてなお成仏すべし。いかいわんや本尊の妙法を読誦どくじゅせんをや。「我が滅度の後に於て、まさの経を受持すべし。是の人仏道に於て、決定けつじょうして疑い有ること無けん」とは是れなり。



つづく


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by johsei1129 | 2016-03-25 21:51 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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