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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 12日

法華取要抄文段 十九  所詮、本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん

問う、証文は如何(いかん)

答う、今(ない)(がん)の辺を引かん。記の九末五十四に云く「若し()()事中の遠寿(おんじゅ)を信ぜば、何ぞ()此の諸菩薩等をして(ぞう)(どう)損生(そんしょう)して極位に至らしめん。故に本地難思(なんし)の境智を(しん)()す」云云。「事中の遠寿」とは文上の寿量品の顕本なり。「諸菩薩等」とは二乗・梵釈(ぼんしゃく)・日月・四天・竜王等を(ひと)しゅうするなり。「極位に至る」とは即ち是れ名字妙覚の位なり。故に「極位」と云うなり。「信解」と言うは即ち是れ久遠名字の妙法を信解するなり。(すで)に久遠名字の妙法を信ずるが故に、即ち久遠名字の信心の位に(かえ)るなり。雲師の私志記十一・四十八に云く「聞いてしんを生ずるは即ち名字の位なり」云云。

宗祖云く「信は()の因・名字即の位なり」云云。

「本地難思の境智」とは即ち是れ()(おん)名字の妙法なり。久遠名字の時なり。(あに)「本地」に非ずや。「難思」は即ち是れ妙なり。故に経に「我が法は妙にして思い(がた)し」と云うなり。「境智」は即ち是れ法なり。故に天台大師は「法は如々(にょにょ)として智、法は如々として境」と云うなり。境智和合すれば則ち因果有り。境を照すこと未だ(きわ)まらざるを因と名づけ、源を尽すを果と為す。因果(あに)蓮華に非ずや。

宗祖云く「本地難思の境智の妙法は迹仏(しゃくぶつ)等の恩慮に及ばず」。亦云く「本地難思・境智冥合、本有(ほんぬ)無作(むさ)の当体蓮華」とは是なり。又外の二十五・十七。  

故に妙楽の文意に云く、若し()()文上の寿量品・久遠本果の法門のみを信ぜば、何ぞ()此の諸菩薩等をして増道損生して久遠の信心・名字妙覚の(ごく)()に至らしめん。故に内証の寿量品・久遠名字の妙法を信解するが故に、()此の諸菩薩等をして久遠名字妙覚の極位(いた)らしむるなり。又五十九に云く「故に長寿を聞いてまた宗旨をりょうす」云云。「故に長寿を聞いて」とは、文上の寿量品の久遠本果の法門なり。「また宗旨を了す」とは、内証の寿量品・久遠くおん名字みょうじの本地難思の境智の妙法なり云云。  

一 生身(しょうしん)の妙覚の仏(ほん)()()して等

  「生身の妙覚の仏」とは名字妙覚の仏なり。「居」は是れ案位の義。(いわ)く、本位を動ぜざる故なり。「本位」と言うは、既に是れ久遠名字の妙覚なり。(あに)本位に非ずや。文意に云く、既に本門に至って諸菩薩乃至日月等、みな久遠名字の妙覚の位に入る。若ししかれば生身の妙覚の仏、久遠名字の本位に動ぜずして、じょうごう不退に衆生を利益りやくしたもうなり云云。

  問う、法蓮抄に云く「一一(いちいち)の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり」云云。又釈尊供養抄に云く「日天子と申すは眼前の利生なり。教主釈尊に(ましま)さずんば(いか)でか()くの如く(あらた)なる事候べき。一乗妙法の力に非ずんば争でか眼前の奇特(きどく)をば現ずべき」(取意)云云。千日尼抄に云く「日蓮を恋しく思食(おぼしめ)さば日月を(おが)ませ給え、日蓮いつとなく日月に影を移す身なり」等云云。此等の文意は如何(いかん)

  答う、是れ相伝の法門なり。君に向って説かず。所詮、本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊・日月(にちがつ)・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん云云。


 つづく


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by johsei1129 | 2016-03-12 09:40 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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