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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 11日

法華取要抄文段 十八  台家の口決は「等覚一転して理即に入る」と相伝するなり 当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり

十八日

 

一 又妙覚の位に入るなり

問う、今経の本門に至って妙覚に登る人有りや。()(しか)らば経及び大師の諸文には、(ただ)「隣極」と云い「登極」とは云わず。若し(しか)らずんば当文(およ)()本尊抄等は如何(いかん)之を(しょう)せんや。

  答う、此れは是れ台家古来の諍論(じょうろん)なり。

一流の義に云く、妙覚の(やく)ありと雖も而も文に之を挙げざるには多く所以(ゆえん)有らん。或は梵本(ぼんぽん)には有るべし、漢には略して書かざるなり。或は若し妙覚の人を()ぐれば二仏(なら)()ずるに成るべし。故に文には之を挙げざるなり。或は本門の得道は是れ(じゅ)()なるが故に、現座の妙覚は文に之を挙げざるか。或は()し妙覚の益を挙ぐれば師弟の道を破るべし。若し師弟の道破れなば(また)本迹の流通(るつう)も破るべし。故に之を挙げざるか。

  一流の義に云く、妙覚の益無かるべし。(いわ)く、若し妙覚に至る時は無師独悟なり。故に聞経の益の中には之有るべからざるなり。或は云く、得益の分極は(ただ)機縁に在り。当時、機有れば即ち此の益有り。若し当座に機無くんば(すなわ)此の無けん。此の法、妙覚に至らしむること(あた)わずと()うには非ず等云云。

  今(いわ)く、当流の意に准ずれば其の義最も明らかなり。謂く、若し文上の寿量品の意に()れば、能化の教主(すで)に四十二品の無明(むみょう)を断じて妙覚究竟(くきょう)の位に入れり。能化既に(しか)なり、所化も爾なり。若し本化付嘱(ふぞく)の内証の寿量品の意に拠れば、能化の教主、五百塵点(じんてん)当初(そのかみ)、凡夫の御時(おんとき)、本地難思の境智の妙法を即座に開悟し、名字(みょうじ)妙覚の成道(じょうどう)を唱うるなり。是れを本地自行の成道と名づくるなり。能化既に(しか)なり、所化も(しか)なり。是れ則ち不断煩悩、不離五欲、凡夫即極、即身成仏の極説なり。(しか)れば則ち内証の寿量品の眼を開いて、(かえ)って在世の本門の得益を見る(とき)は、初め発心より終り補処(ふしょ)に至るまで、(みな)久遠名字の妙覚の位に入るなり。

  (およ)そ妙覚とは、必ずしも四八の妙相に非ず。始終の不変なるを名づけて妙覚となし、(しか)も少しも変わらざるが妙覚の実体なり。謂く「(すい)脱在(だつざい)(げん)()騰本(とうほん)(しゅ)」の本因(ほんにん)(みょう)、久遠常住にして「等覚一転・名字妙覚」の成道を唱うるが真実の妙覚なり。天台・妙楽は内鑑(ないかん)冷然(れいねん)たりと雖も、付嘱無き等の故に此の義を()べず。然りと雖も台家の口決(くけつ)に「等覚一転して理即に入る」と相伝するなり。等海集第六・二十六、(これ)を見合すべし。 

  (けだ)し当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり。然れば(すなわ)ち初め発心より終り補処(ふしょ)に至るまで、(みな)久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して(さら)に妙覚の益を挙げざるなり。

  次に(まさ)しく今文を(しょう)せば、

文に「位妙覚に隣る」と云うは、是れ文上の(ぶん)(ざい)に益するなり。即ち玄文第一の「(ぞう)(どう)損生(そんしょう)して、位大覚に隣る」の文に同ずるなり。

又「妙覚の位に入る」とは、是れ本化(ぽんげ)付嘱の内証の寿量品の意に()るなり。本尊抄の「等妙を脱と為す」、之に(じゅん)じて知るべし。

祈禱抄十六・五十一に云く「教主釈尊・四十余年が間は『因分説く()し、果分は説く可からず』と申して妙覚の功徳を説き(あらわ)し給わず、されば妙覚の位に登る人一人もなかりき・本意(ほい)なかりし事なり、而るに霊山(りょうぜん)八年が間に『(ただ)一仏乗を名づけて果分と為す』と説き顕し給いしかば・諸の菩薩・(みな)妙覚の位に(のぼ)りて釈迦如来と悟り等し」云云。

此の文の意、()いて同じきなり。

文に云う「四十余年乃至妙覚の位に登る人・一人もなかりき」とは、若し仁王(にんのう)瓔珞(ようらく)の中の現座の妙覚は、彼の経の大旨(たいし)に准ずるに、(ただ)是れ別教の妙覚なり。故に円位に望む(とき)は第二行の菩薩なり。故に「一人もなかりき」と云うなり。  

文に云う「霊山八年が間乃至(もろもろ)の菩薩・皆妙覚の位に(のぼ)る」とは、()し文上の意に()らば、迹門には(なお)等覚の益無し、況や妙覚の益あらんや。本門も亦妙覚の益無し、(ただ)補処(ふしょ)に限る故なり、何ぞ今「諸の菩薩・皆妙覚の位に上る」と云わんや。故に知んぬ、今、本化付嘱の内証の寿量品の意を以て、(かえ)って在世得益の相を見るに、諸の菩薩等、皆久遠の信心、名字妙覚の位に登るなり。故に「皆妙覚に上る」と云うなり。(あに)今文の意に同じきに非ずや。


つづく


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by johsei1129 | 2016-03-11 22:33 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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