日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 09日

法華取要抄文段 十六  未だ本門に至らざれば、なお是れ夢裏(むり)の権果なり

  
  六月十五日

 

一 問うて(いわ)く略開近顕遠の(こころ)如何

  此の下は釈、亦二。初めに(りゃっ)(かい)、次に広開なり。文の如く見るべし。  

一 文殊(もんじゅ)弥勒(みろく)

  問う、何ぞ別して二聖を()ぐるや。

  答う、(およ)そ序品の問答は一経発起(ほっき)の初めなり。此の意を以ての故に、別して之を挙ぐるか。  

一 不思議解脱(げだつ)に住して等

  釈尊は(しょ)成道(じょうどう)已前、三徳秘蔵の妙理に住するなり。  

一 (われ)と別円二教を演説す

  文は恐らく(さかさま)なり。(まさ)に「我別円二教を演説す」に作るべきなり。

  問う、文の六・二十五に「即ち傍人(ぼうじん)(つかわ)す」を人に約して釈して云く「華厳(けごん)の中に四菩薩をして四十地を説かしむるが如きは、即ち傍人を遣すなり」と云云。妙楽(これ)を受けて釈して云く「()の四菩薩、此の位を説く時、並びに仏力の故に説くと云う。何に所遣(しょけん)と名づく」等云云。既に仏の加うるに()る、何ぞ「我演説す」と云うや。

  答う、今は但()()論じて其の内証を論ぜず。(おのおの)一意に()る。(じゅう)()補註(ふちゅう)・三十七に云く「又華厳の中に文殊・弥勒各々(おのおの)自説す」等云云。既に「自説」と云う之を思い見るべし。  

一 勝は劣を()ぬる是なり。

  問う、開目抄上四十五に云く「蔵・通二教は又・(べち)・円の枝流なり別・円・二教をしる人必ず蔵・通・二教を知るべし」云云。同異は如何(いかん)

  答う、彼は()()に約し、今は法体(ほったい)に約す。其の言は(こと)なりと雖も、其の意は之同じ。謂く、界外(かいげ)の二教は(なお)根源の如し、故に是れ勝なり界内(かいない)の二教は是れ枝流の如し、故に是れ劣なり。(注:界外は声聞(しょうもん)・縁覚・菩薩・仏をさす。界内は地獄から天界までの六道をさす)  

一 釈尊の師匠なるか(ぜん)知識か

  問う、(たと)い釈尊の説法は此等の諸人の得分に非ずと雖も、何ぞ(なお)進んで「釈尊の師匠」と云わんや。

  答う、開目抄に云く「世尊・()の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円を()けり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此等の菩薩をかず()へて善知識ととかれしはこれなり」文。今「委細(いさい)に之を論ぜば」と云う是れなり。  

一 始めて未聞(みもん)の法を聞いて

  彼の領解(りょうげ)の文に云く「我等昔より(このかた)(しばしば)世尊の説を聞きたてまつるに、未だ(かつ)(かく)の如き、(じん)(みょう)上法(じょうほう)を聞かず」云云。故に「未聞の法」と云うなり。(すなわ)是れ諸法実相、一念三千の法門なり。此の法門を信解(しんげ)て即ち疑を断じて(だつ)を得たり。故に「菩薩()の法を聞いて、疑網(ぎもう)(すで)に除く」等となり。然りと雖も未だ本門に至らず、(なお)是れ()()の権果なり。

  故に開目抄下初に云く「又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月(にちがつ)・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ(しか)れども霊山(りょうぜん)(あさ)くして夢のごとく・うつつならず」等云云。  

一 舎利(しゃり)(ほつ)目連(もくれん)

  問う、何ぞ別して此の二聖を()ぐるや。

  答う、舎利弗は右面(うめん)の弟子、目連は左面(さめん)の弟子。例せば世の左右の大臣の如し。故に別して之を挙ぐるなり。(いわん)(また)此の二聖は同時に御弟子と成り、又同時に滅度を示すなり。(けだ)定慧(じょうえ)の二法の離れざる相を表するか。同時に御弟子と成るとは、大論の十一・二紙の如し。同時に滅度(めつど)を示すとは、西域(せいいき)九十九の如し。珠林、統紀の四・五。


                      つづく

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by johsei1129 | 2016-03-09 22:30 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)


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