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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 08日

法華取要抄文段 十四  一切衆生は二人に過ぎず。謂く、一人は是れ権迹の行者、一人は是れ本因妙の信者なり 

  
 問う、台家(たいけ)の口伝に准ずるに、本地無作の三身とは即ち是れ一切衆生なり。故に明匠(みょうしょう)口決(くけつ)の第五・二十六に云く「()ず仏果を定むるに自他宗の意格別(かくべつ)なり。若し他宗権門の意は、(およ)そ仏果とは()(こん)の妙体、瓔珞(ようらく)(さい)(なん)の仏を以て仏果と為す。若し一家(いっけ)円実の(こころ)は、此等の仏果は(しばら)く機の前に面形(めんぎょう)()けて(ばけ)たる仏なり。故に有為(うい)の報仏は未だ無常を免れざる仏果なりと(くだ)して此の上に本地無作の三身を以て真実の仏果と為すなり。其の無作の三身は(また)是れ何物ぞ。謂く、(ただ)十界三千本来常住の処を指して体と為す。(しか)(とき)究竟(くきょう)の仏果は(ほか)無し、只是れ我等が当体なり。故に守護章に謂く『有為(うい)の報仏は()()の権果、無作の三身は覚前(かくぜん)の実仏』云云。山家(さんけ)の秘密荘厳論に云く『一念三千即自受用身、自受用身とは(しゅっ)(そん)(ぎょう)の仏』」等云云。既に本地無作の三身を以て真実の仏果と為し、究竟の仏果は(ほか)になし、只是れ我等が当体なりと云う(あに)本地無作の三身は即ち是れ一切衆生に(あら)ずや。

  答う、今()義に於て両重の総別あり。

  一には総じて之を論ずれば一切衆生なり。別して之を言わば蓮祖の末弟なり。

  二には総じて之を云わば蓮祖の末弟、別して之を論ずれば(ただ)是れ蓮祖大聖人のみ真実究竟の本地無作の三身なり。  

  問う、其の(こころ)如何(いかん)

  答う、且く(とう)()の如き、紅華青葉は染めて然らしむるに非ず。自然(じねん)(ほう)()にして不可思議なるは無作の法身なり。()く四季の転変を(わきま)え、時節に()()(たが)わざるは是れ一分の智慧に似たり。即ち是れ無作の報身なり。春は生じ、夏は長じ、秋は(くれない)に、冬は(しぼ)み、()く生住異滅の(ゆう)を顕すは、即ち是れ無作の応身なり。非情すら(なお)(しか)なり。況や有情(うじょう)をや。

  (しばら)く鳥獣の如き、各々(おのおの)の身分は無作(むさ)(ほっ)(しん)なり。分々の智慧は無作の報身なり。己々の作用は無作の応身なり。畜生すら(なお)(しか)なり。(いか)(いわん)や人界をや。我等が五体の身分は是れ無作の法身の境なり。我等が分々の()()は即ち是れ無作の報身の智なり。我等が(じょう)(ごう)作業(さごう)は無作の応身の(ゆう)なり。当に知るべし、妙法蓮華経の五字を以て一切衆生の色心の二法を造る。故に所有(しょう)の所作は皆是れ本有(ほんぬ)無作の振舞なり。(あに)無作の三身に非ざるべけんや。

  ()し理に()れば然りと雖も、()に約すれば則ち然らず。(たば)ねて之を論ずるに、一切衆生は二人に過ぎず。謂く、一人は是れ権迹(ごんしゃく)の行者、一人は是れ本因妙の信者なり。若し権迹の(やから)は既に無作三身の真仏を信ぜざるが故に、其の人も(また)無作三身に非ざるなり。徐氏、信の字を釈して云く「文に於て人(ことば)を信と為す。(ものいう)(まこと)ならざるは人と為すに非ざるなり」云云。外典(げてん)(なお)(しか)なり(いわん)や仏法をや。(なお)人と名づけず、況や仏と名づくべけんや。但信ぜざるのみに非ず、(また)之を毀謗(きぼう)す。(あに)其人(ごにん)命終(みょうじゅう)(にゅう)阿鼻(あび)(ごく)」の人に非ずや。何ぞ無作三身と名づけんや。


                       つづく

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by johsei1129 | 2016-03-08 21:21 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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