日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2016年 03月 06日

法華取要抄文段 十一 内証の寿量品は久遠元初の名字の遠本を説き顕す。蓮祖は是れを広開近顕遠と名づくるなり

  
十五日

 

一 問うて云く本門の心如何

  此の下は次に本門、亦二と為す。初めに略して両義を示し、次に「問うて云く(りゃっ)(かい)」の下の文は広く両義を釈す云云。  

一 一には涌出品(ゆじゅつほん)乃至脱せしめんが為なり

問う、涌出品の(りゃっ)(かい)(ごん)(けん)(のん)の文に云く「我れ伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)()し、最正覚を成ずるを得て、無上の法輪を転じ、(しか)して(すなわ)ち之を教化して、初めて道心を(おこ)さしむ乃至(われ)久遠より(このかた)是れ等の衆を教化せり」等云云。

既に「伽耶城に於て乃ち之を教化す」と説き、又「我久遠より(このかた)是れ等の衆を教化す」と説く。一段の文の中に、此の二説は(あたか)も水火の如し。故に一会(いちえ)の大衆、執を動じて疑を生ずるなり。故に知んぬ、略開に於ては但是れ()(もう)を生ず、何ぞ脱益(だっちゃく)を得んや。故に天台云く「略開近顕遠・動執(どうしゅう)生疑(しょうぎ)」云云。

今、何ぞ判じて「(ぜん)四味(しみ)(ならび)に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり」と云うや。

答う、一義に云く「略開近顕遠・動執生疑」とは、是れ()(とく)無生(むしょう)及び未得の者に約するなり。若し弥勒(みろく)等の深位の菩薩は、略開の説を聞いて如来の内証に達し、即ち脱益を得たるなり。(しか)るに「弥勒等心に疑惑を生ず」と云うは、()(どう)を知らざるが故なりと云云。

一義に云く、既に序分の無量義経に於て、(ただ)出多の経を聞いて(ひそ)かに帰一の(やく)を得たあり。又今経の序品の時、久遠下種の人には脱益を得たる人あり。序分(なお)(しか)なり、況や略開三顕一に於てをや。迹門既に爾なり。本門(あに)略開得脱の人無からんや。故に知んぬ、利鈍の両機、略広を()(まさ)に得脱すべしと雖も、今、広開は一向に滅後の判に対せんが為に、在世(ざいせ)の脱益を総じて略開に属するなり云云。

(いわ)く、此等の諸義は並びに宗祖の本意に非ず。不相伝家、誠に(あわ)れむべし。当に知るべし、寿量品に於て義に両辺あり。

所謂(いわゆる)一には文上の寿量品、是れ(すなわ)本果(ほんが)()(じょう)の遠本を説き顕す。此の顕本の説を聞いて、在世一段の衆生は皆真実の断惑(だんなく)(きわ)むるなり。是れを天台は「(こう)(かい)(ごん)(けん)(のん)・断惑生身」と名づくるなり。

二には内証の寿量品、是れ則ち久遠元(くおんがん)(じょ)の名字の遠本を説き顕す。蓮祖は是れを広開近顕遠と名づくるなり。此れは是れ天台未弘(みぐ)の法門なり。

是の故に今文の意は、文上の寿量品、天台の「広開近顕遠・断惑生信」を以て(なお)退(しりぞ)けて涌出品の略開近顕遠に属し、通じて断惑生信と為す。故に「涌出品の(りゃっ)(かい)(ごん)(けん)(のん)は前四味(ならび)に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり」と云うなり。次に内証の寿量品を以て広開近顕遠と名づく。れを以て(まさ)しく「一向に滅後の為」とするなり。


                   つづく
目 次



by johsei1129 | 2016-03-06 10:44 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/25020006
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< GOSHO 上野殿御返事(熱原...      当時高く評価されていた真言を法... >>