十五日
一 所謂金光明等文。
開目抄下二十三已下、往いて見よ。本朝法華伝の上二十五、六。
一 此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり文。
記の六・三十六に云く「縦い経有って諸経の王と云うと雖も、已今当説、最為第一と云わず。兼但対帯、其の義知る可し」云云。
一 或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば等文。
梵天の出欲論、帝釈の種々勝論云云。開目抄上四十四ウ、健抄四六十二。
一 是れ諸経の王の大王なるに非ず。
報恩抄上五、往いて見よ。
一 所詮所対を見て等文。
例せば大小相対の如し。具には五義あり。迹門も尚本門に望むれば名づけて小と為すなり。記の九末九に云く「凡そ諸の法相は所対不同なり。何ぞ須く問うて円は小を楽うに応ぜずと言うべけんや(注:別の読み下しあり。大石寺版:何ぞ問うて円は応に楽小なるべからずと言うを須たんや)」云云。
一 強敵を臥伏するに等文。
日本武尊の事、大成経二十一・十二に出ず。
一 其の上諸経の勝劣文。
此の下は証明の有無を明かす。他経の中には証明等無し、故に「釈尊一仏の浅深」と云うなり。
問う、般若経の舌相、弥陀経の舌相は如何。
答う、本尊抄八・二十四に云く「夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し、舌相梵天に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆うは有名無実なり、般若経の舌相三千光を放って般若を説きしも全く証明にあらず、此は皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」云云。又開目抄上十九。
一 諸経は或は二乗凡夫に対揚して文。
此の下は対告の尊卑を明かすなり。
一 弘博の菩薩等文。
「弘博」は即ち是れ凡夫の義なり。書註一・十五に「弘は大なり、広なり。博は通なり、普なり」文。広大普通、豈凡夫の義に非ずや。例せば博地の凡夫、普通の凡夫の如し。今、地涌千界に望み、迹化の菩薩を以て未断惑の凡夫と名づくるなり。其の相、当体義抄二十三・二十一、十法界抄三十四・三十五に具に経釈を引いて之を判ずるが如し。
つづく
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