日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 02月 29日

法華取要抄文段 四 「生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」

  
  問う、略して難易(なんい)を知るの相如何(いかん)

  答う、(また)妙判あり。今引いて之を示さん。
 難信難解抄十七・三十五に云く「外道(げどう)の経は()(しん)()()・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若(はんにゃ)経は難信難解なり・般若と華厳(けごん)と・華厳と涅槃(ねはん)と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。問うて云く此の義を知つて何の(せん)か有る、答えて云く生死(しょうじ)の長夜を照す大燈(だいとう)元品(がんぽん)無明(むみょう)を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」已上。

  此の中に七重の難易あり。伝教云く「易信易解は(ずい)他意(たい)の故なり。難信難解は(ずい)自意(じい)の故なり」云云。随他意は是れ衆生の(こころ)に随う、故に信じ(やす)()し易し。随自意は(ただ)ちに仏意に随う、故に信じ難く解し難きなり。大日経は是れ方等部の(しょう)なり。故に知んぬ、通じて方等部を指すなり。「生死の長夜」とは、唯識論に云く「(いま)だ真覚を得ず、(つね)に夢中に()る、故に仏説いて生死の長夜と為す」文。(しゃ)(せき)一巻二十四ヲ。「真覚」とは即ち真仏なり。(すで)に覚者と名づくるが故なり。  

  当に知るべし、()(ぜん)・迹門の仏は(いま)だ本門寿量の真仏を得ざれば、(なお)是れ夢中の虚仏(こぶつ)なり。故に「未だ真覚を得ず、恒に夢中に()る」と云うなり。(また)爾前・迹門の仏は未だ元品の無明を断ぜず。故に惑者(わくしゃ)と名づけ、亦賢位と名づくるなり。
 当体義抄二十三に云く「爾前迹門の当分(とうぶん)(みょう)(かく)の位有りと雖も本門寿量の真仏(しんぶつ)に望むる時は惑者(わくしゃ)()(けん)()()ると云わるる者なり、(ごん)(きょう)の三(じん)未だ無常を免れざる故は夢中(むちゅう)虚仏(こぶつ)なるが故なり」云云。

(まさ)に知るべし、爾前・迹門の間は仏(なお)生死の長夜に迷い、未だ元品の無明を断ぜず。(いか)(いわん)や所化の衆生をや。故に権実の浅深を弁じ、本迹の勝劣を知って、(ただ)本門寿量の教主の金言を信じて南妙法蓮華経と唱うべし。()(しか)らば生死の長夜を照らし、元品の無明を切って、倶体(くたい)()(ゆう)無作(むさ)三身・本門寿量の真仏と顕れん事、(あに)(うたがい)有らんや。故に「此の法門に過ぎざるか」と云うなり。

  問う、略して先後を知るの相如何(いかん)

  答う、(また)祖判の中に文理(もんり)分明(ふんみょう)なり。
 録外第七
・二十二に云く「法華経の第七の巻を見候へば『如来の滅後において仏の所説の経の因縁(いんねん)及び次第を知り義に随って実の如く説かん、日月の光明の()(もろもろ)幽冥(ゆうみょう)を除くが如く()の人世間に行じて能く衆生の(やみ)を滅す』等云云。文の意は此の法華経を一字も一句も説く人は必ず一代聖教の浅深と・次第とを()(わきま)えたらむ人の説くべき事に候。(たと)へば暦の三百六十日をかんがうるに一日も相違せば万日(とも)に返逆すべし三十(みそ)一字(ひともじ)連ねたる一字・一句も相違せば三十一字共に歌にて有るべからず(いわゆ)る一経を読誦すとも始め寂滅道場より終り双林(そうりん)最後にいたるまで次第と浅深とに迷惑せば・其の人は我が身に五逆を作らずして無間(むけん)地獄に入り・此れを帰依せん檀那も阿鼻(あび)地獄()つべし等云云。

所引の文中に「一代聖教の浅深と次第」とは(しばら)く浅深を()げて勝劣・難易を知らしむるなり。次第は即ち是れ今文の「先後」の両字なり。(しか)れば則ち爾前・迹門・本門・文底の勝劣・浅深・難易・先後・()之を弁ずべし云云。

  問う、浅深を知って何の(せん)有りや。

  答う、伝教大師云く「浅きは(やす)く深きは(かた)しとは釈迦の所判(しょはん)なり。浅きを去って深きに()くは丈夫(じょうぶ)の心なり」云云。

  問う、前後を知って何の(せん)有りや。

  答う、華厳玄談五・二十七に云く「譬えば世の(こう)(ちょく)の前勅を破るが如し。涅槃法華は最後に()る故に能く有余(ゆうよ)の義を決了するのみ」文。
 宗祖三十一
・二に云く「仏説すでに(おおい)に分れて二途なり、譬へば世間の父母の(ゆずり)の前判後判のごとし、(はた)(また)世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の(ゆう)不用(ふゆう)より事をこれり」云云。

一 ()(けん)に任せて之を(わきま)えんとすれば其の分に及ばず

(むね)()って之を知らんとすれば点の如し。

「其の分に及ばず」とは日蓮の智分に及ばずとなり。是れ()(けん)の言なり。


              つづく

目 次 

by johsei1129 | 2016-02-29 21:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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