【南条殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280) 九月七日以降と思われます。五十九歳 御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:大聖人は時光の弟・七郎五郎の突然の死去に関しては知らされた直後、又四十九日の法要の時には
【上野殿母御前御返事】を送られるなど、折に触れ何通もの消息を時光及び母御前に送られておられます。本書もその中の一通です。
大聖人は本消息を送られた約三か月前の弘安三年六月十五日に、時光とともに身延に見参された当時十六歳の七郎五郎に会われておられます。そして九月五日に七郎五郎は突然死去されます。
この消息には七郎五郎の印象について「あはれ肝ある者かな、男や・男やと見候いしに、又見候はざらん事こそ・かなしくは候へ」と記され、将来を期待されていたことを伺わせております。また七郎五郎の突然の死去について「まこととも・をぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず、又又申すべし」と記され「本当の事だと信じられない」と当時の心境を伝えられておられます。
本消息では「此の御ふみにもあそばされて候。さては・まことか・まことかと・はじめてうたがい・いできたりて候」と記され、時光から白米等の御供養と共に送られた消息を読んで、あらためて七郎五郎の死がまぼろしという事に疑いが生じ、現実の事だと感じられた心境を率直に綴られておられます。
このことから本消息は【上野殿御返事(弔慰御書)】を送られたあと何日か経過してから、あらためて送られた消息であると推察されます。
■ご真筆:富士大石寺所蔵(一般非公開)。
【南条殿御返事 本文】
はくまい(白米)ひとふくろ(一袋)、いも一だ(駄)給び了んぬ。
抑(そもそも)故なんでう(南条)の七らうごらうどのの事、いままでは・ゆめ(夢)かゆめか・まぼろしか・まぼろしかと・うたがいて、そらごと(虚言)とのみ・をもひて候へば、此の御ふみにも・あそばされて候。
さては、まことか・まことかと、はじめて・うたがい・いできたりて候。
(この後の文は伝えられておられません)