一 諸の菩薩の二目等文。
此の下は爾前の二失に合するなり。謂く、爾前の諸経は既に長夜の闇の如し。三乗等の眼を閉じて法体の本妙の色形を見せしめざるなり。次に「中程に」等の下は法華の二徳に合するなり。謂く、本迹二門は既に日月の如し。故に三乗等の眼を開く。法体の本妙の色形を見せしむるなり。
問う、「爾前」の合譬の文には眼を閉ずと云わず。亦「法華」の下には色形を見るといわず。何ぞ二失、二得に合すと云うや。
答う、影略互顕なり。謂く、色形を弁えざることは良に眼を閉ずるに由る。眼を開く意は正に色形を見るに在り。故に各一を挙げて以て二意に合するなり。
一 中程に法華経の時・迹門の月輪等文。
当に知るべし「迹門」は爾前と本門の中間なり。故に「中程」と云うなり。
問う、啓蒙に云く「古本に『迹門の日輪』云云。尤も正と為すべし。一には、今は本迹を分つ場所に非ざるが故に。二には、別に日輪の合譬之無きが故に。三には、下の文の『春夏の日輪』の文は本迹に亘るが故に。但し『中程』とは、爾前の闇に迷う最中に法華を説き始むる故なり」等云云。此の義は如何。
答う、既に次下に「迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙」と云う。何ぞ一向に本迹を分つ場所に非ずといわんや是一。
若し「迹門の日輪」に作らば、別に月輪の合譬之無し是二。
凡そ譬えを用うること一准ならず。何ぞ下の文を以て強いて今の文に擬せんや是三。
多くの難有りと雖も、今は且く之を略す。
一 菩薩の両眼等文。
法説の第一、正説に云く「菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く。千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」云云。同じき第五の歓喜段に云く「大智舎利弗、今尊記を受くることを得たり。我等亦是くの如く、必ず当に作仏することを得べし」文。故に知んぬ、第一に菩薩、第二に二乗、第三に凡夫なり。「我等亦是くの如し」とは是れ四衆・八部の凡夫なり云云。「生盲の一闡提」とは、涅槃経九に云く「唯生盲一闡提を除く」等云云。
つづく
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