一 発とは開なり文。
籤の一本二十に云く「発とは開なり。昔秘して説かず」等云云。記の三中四十八に云く「発とは開なり。所除の辺に約して名づけて発迹と為し、所見の辺に約して発本と為す」等云云。
一 妙と申す事は開と云う事なり文。
蔵を開く則は必ず財を見る。故に蔵を開くとは即ち財を見る義なり。亦帳を開く則は必ず仏を見る。故に開帳とは即ち見仏の義なり。故に爾云うなり。
一 世間に財を積める蔵等文。
此の下は次に広釈、二。初めに鑰に依って蔵を開く義に寄せて釈し、次に「譬えば大地」の下は、日月に依って眼を開く義に寄せて釈す。初めに亦二。初めに爾前、次に「而るに仏」の下は今経。
一 鑰なければ開く事かたし等文。
例せば大師の第十五の蔵の如し云云。御書十三・二十。山門秘伝見聞七に云く「伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝え給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其の時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く『此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し』と云云。其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに、此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなり、ありがたき事なり、其の時・道邃和尚は返って伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と」云云。合譬云云。
一 而るに仏・法華経を説かせ給いて等文。
当に知るべし、財は是れ法体の本妙、蔵は是れ爾前の諸経、鑰は是れ開顕の法華経なり。然るに爾前四十余年の間は空しく四味三教の蔵門を閉じ徒に法体本妙の財を隠して開顕の鑰なし。故に蔵を開くこと能わず。所以に蔵の内の財を見ず。設い見ると思いし者も僻見にて有りしなり。而る後、法華開顕の鑰を以て爾前諸経の蔵を開きたもう。此の時、四十余年の九界の衆生は始めて法体本妙の財を見知りたりしなり。既に蔵開く則は妙を見る。故に「妙と申す事は開と云う事なり」云云。
つづく
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